日本の武士の自決方法として、古来から伝わる「切腹」。
もとは単なる自決の手段だったのが、なぜ「名誉の死」として尊ばれるようになったのか。
その謎を解く鍵は、華々しく散っていった武将たちの死に隠されていた。
 

秀吉はなぜ「切腹」を利用したのか?

 

 ドラマや小説の世界では、秀吉は主君信長による、比叡山(ひえいざん)延暦寺(えんりゃくじ)への焼き討ちや、長島一向一揆の掃討(そうとう)などの残虐行為への反発から、「城主切腹城兵救命」の流れを編み出した、情の篤(あつ)い人物として表現されることもある。

 だが、秀吉は主君への反発や虐殺行為への抵抗から、城主切腹城兵救命を定型化したのではない。城に逃げ込んだ庶民や、農民上がりの城兵までも殺害すれば、生産力は低下してしまい、戦後復興への障害となる。

 また、城主には切腹という儀式と、自己犠牲という名誉を与えることにより、開城交渉を順調に進められるという利点があったのだ。

 秀吉は、天正6年(1578)3月より、三木城攻めを開始する。城主の別所長治(べっしょ・はる)は、織田の勢力が播磨(はりま)西南部にまで達すると、いったんは信長に臣下として仕えることを誓った。だが、播磨にまで安芸郡山城主の毛利輝元(てるもと)の勢力が及ぶと、毛利陣営に味方し、信長への不信や反感から叛旗(はんき)を翻したのだ。

 6月になると、秀吉は三木城から北東約2キロに位置する平井山を本陣とし、三木城攻めを本格化させた。三木城は、美嚢(みのう)川を天然の堀とする要衝に位置するため、秀吉は、力攻めでは攻略できないと判断。平井山を中心にして包囲網を築き、毛利からの補給路を遮断して城内の食糧が尽きるのを待つという「兵糧攻め」を選択したのだ。
<次稿に続く>