第37回 
装飾ではなく本質を

 


表現で印象は変わるが

 

 たとえば、「金持ちになんかなりたくない」と何度も言いすぎると、金持ちになりたいのかな、と思われてしまう。前回、「僕は嫉妬しない」と書いたから、きっと、「本当は嫉妬しているから、こんなことを書くんだ」と思われるだろう。人間には、それくらいの想像力があるし、世の中というのは、けっこうひねくれている、森博嗣並みに。
 ただ、そのひねくれ方が、客観的な方向へひねくれるのか、いつも自分の都合の良い方向にだけひねくれるのか、という違いは大きい。世間のひねくれ者の多くは後者だ。
 弁解するわけではない。作家というのは、誤解覚悟で文章を書くのが仕事である。
 それはさておき、このように「なにかと逆に受け取る」のは、さほど特別なことではない。だから、もし誤解されたくなければ、それを見越して、正直に言わない方が身のためだろう。僕の場合は、これが仕事だから、身のためにならないけれど、正直に書いているというだけである。身を削っているといっても良い。どんな仕事も身を削るだろう。
 もっとも、同じ内容の発言をしても、言い方によってがらりと印象は変わる。極端な例だと、それを誰が言ったかで、伝わり方は全然違ってくる。
 僕は、どんな言い方だろうが、誰がどんな仕草で発言しようが、言葉の内容のままに受け取る人間だ。世間の大勢はそうではない。笑顔でやんわりと言われれば好意的に取り、突っ慳貪な言葉には反発するのが常である。
 突然言われるとカッとなるから、あらかじめ伝えておく根回しが必要だ、と言われることも多いが、かように皆さん感情的だということ。言葉が言葉の意味のまま通じるなんて本当に奇跡だ、と文章を書く仕事をしているとしみじみと感じる。
 人間なんだから感情に左右されるのはしかたがない。しかし、それを乗り越えるのが理性であり、人間の智力ではないのか、と思うのだが、いかがだろうか。

 

極端な価値観のスパイス

 

 何が言いたいのか簡潔にまとめると、表現はたしかに大切だし、それ以前に信頼を築いておくことも重要ではあるけれど、それらは飾られた「虚像」である、ということ。
 社会で生きていくためには、人間関係も必要だし、そのためにはある種の「演技」がどうしても必要になるだろう。これは「正直」とか「素直」とは正反対のものであり、つまりは、「虚」だし「嘘」なのだ。
 百歩譲って、「装飾」だと解釈し、悪いことではない、くらいなら納得できるかもしれない。そう、飾られているものが実に多い。
 いつも「本質ではない」と自覚して、「装飾」に惑わされない自分があればそれで良い、と確認したい。そうでないと、綺麗な飾りものに騙され続けることになる。
 研究者という極端な環境に三十年近く身を置いたためか、僕は本質の価値を学ぶことができた。それは、実社会ではあまりにも異端で、常識外れといえる価値観だろう。でも、今まで一度も裏切られたことがないし、今もそれが間違っているとは全然考えていない。
 一般に、極端な考え方は嫌われる。そんなことばかり口にしていると、相手にしてもらえなくなる。だが、そこは、匙加減だ。
 本質は飾りとは無関係だ、みたいな極端な価値観は、それだけでは成り立たないにしても、たとえば、スパイスのようなもので、微量でも加わると絶大な効果がある。
 その極端なスパイスを、いつもポケットに持っていることは、今の社会を生きていくうえで非常に有利だ。生ぬるい世間の価値観に一振りするだけで、見違えるほど美味しくなる。そして、進む道の見通しが良くなるだろう。
 これは飾られているな、とたまに思い出すだけで、はっとする。だらだらと締まりのない日常を一変させるかもしれない。
 他者の評価を気にして、当たり障りのない行動と、つつがない時間を過ごすだけの人生が悪いとは思わない。ただ、なにか欠けているものがあるのでは、と本能的に感じている人は、これと同じように、極端な自分の発想をスパイスに使えば良い。ときどき、自分のポケットからそれを出して振りかけるのだ。

 

春は自然に嬉しくなる

 

 春が近づいてきた。暖かくなるだけでなく明るくなる。屋外に出て、綺麗な空気を吸うと、なにか新しい自分になった気分で、それだけで嬉しい。歩くだけで楽しいし、いろいろなことがしたくなる。結局、人間というのは自然の一部なのだな、と気づかせてくれる。

森博嗣さん連載「道なき未知」バックナンバーはこちら

冬の朝の庭園。青一色の空に、樹々の枝が真っ白に輝いて、まるで桜が咲いているみたい。