日本の武士の自決方法として、古来から伝わる「切腹」。
もとは単なる自決の手段だったのが、なぜ「名誉の死」として尊ばれるようになったのか。
その謎を解く鍵は、華々しく散っていった武将たちの死に隠されていた。
 

「切腹すれば部下は助けるよ」by 秀吉

 

 翌天正7年6月には、軍師の竹中半兵衛(たけなか・はんべえ)が平井山で病没するという痛手を負った。その一方では、三木城を守る別所方の支城を攻略しながら、包囲のための砦を城の間近にまで築くことにより、完全な包囲網を築き上げた。

 9月には、それまで毛利方に属していた備前の宇喜多直家(うきた・なおいえ)が秀吉の工作により、信長に仕えることになった。そのため、毛利からの援軍到着が望まれなくなり、季節が冬へと向かうと、三木城では食糧が不足。城内では牛馬や犬までもが喰い尽くされ、餓死者や凍死者が続出した。

 当時の籠城戦では、補給路が完全に遮断され、食糧がつきかければ、餓死者が出る前に降伏するのが常識といえる。だが、城主の長治は、自身がいったん信長に仕えながら叛旗を翻しており、自分だけではなく、籠城兵までも撫で斬りにされるだろうという恐怖心から、降伏することができず、大量の餓死者を出しても籠城を続けた。

 天正8年の正月を迎えると、三木城内の「干殺し」の状態は悪化の一途をたどるばかりだった。15日、ついに長治は、自身の切腹を条件にして、
城兵の助命を申し入れたところ、秀吉によって受諾される。17日、長治は3歳のわが子を刺し殺したうえで、妻の自害を見届けて切腹した。

 なお、城主切腹城兵救命という流れは、この三木城攻防戦での長治の切腹が戦国史上初というわけではない。播磨上月(はりまこうづき)城での尼子勝久(あまこ・かつひさ)の切腹、備後鏡山城攻防戦での蔵田房信(くらた・ふさのぶ)の切腹など、いくつかの前例は存在するものの、その衝撃や影響は長治の切腹と比較すると、限定されていた。長治の切腹により播磨西南を領域とする小戦国大名・別所氏は滅亡したが、信長への反逆という罪の責任を一身に負い、城兵を救った名将として、その名は後世にまで語り継がれることになる。
<次稿に続く>