日本の武士の自決方法として、古来から伝わる「切腹」。
もとは単なる自決の手段だったのが、なぜ「名誉の死」として尊ばれるようになったのか。
その謎を解く鍵は、華々しく散っていった武将たちの死に隠されていた。
 
 

名人が編み出した城攻めの工夫とは?


  因幡鳥取城主の山名豊国(やまな・とよくに)は、織田家に従属するつもりだったところ、重臣の多くは毛利氏を頼るよう主張。それでも、豊国が秀吉との戦いを避けようとしたところ、重臣たちはクーデターを起こし、豊国を追放してしまう。主君を追放するという行為は、不義、不忠の行為かもしれないが、組織を守るという大義名分により、彼らの行動は正当化されたようだ。秀吉は、山名家との外交交渉が決裂すると、いったん鳥取城攻めを中断。

 ただし、ちょうど秋の収穫時期であったことから、(因幡国内で)米をはじめ、雑穀などを相場よりも高い値段で買い付けた。すると、領民たちのみならず、反秀吉派の旧山名家の家臣たちもが競うようにして食料を売り、利殖(りしょく)に走った。

 三木城攻めに際し、2年もの歳月を費やした反省から、秀吉は、本格的に戦いが開始される以前の段階において、鳥取城周辺の食料を減らすことにより、攻城戦の短期化を策したのだ。相場よりも高い金額で食料を買い取る具体的な額は不明ではある。だが、結果的には鳥取城盗りは4カ月で決着がついており、もしも、城攻めが1年がかりであったとしたのなら、その間に兵士たちへ与える食料をはじめ、2万にも及ぶ兵力を動員するコストを考えれば、十分に元手の取れる額だったと想定できる。

<次稿に続く>