重長、幸村の血筋を守り抜く

 そして、翌一六一五年(慶長二十年)、大坂夏の陣、道明寺の戦いで、重長は約束通り、伊達家先鋒をつとめ、後藤又兵衛など、名将の率いる大坂方の軍と衝突します。彼は戦いの経験はほとんどないといってもいいようなものでしたが、老練な武将相手に奮戦、8時間の戦いの末、又兵衛を討ち取ります。

 勢いに乗った重長は、遅れて駆けつけてきた真田幸村の軍とも真っ向から衝突。真田六文銭の旗と、伊達竹に雀の旗は、押しては退き、退いては押し、互いに一歩も譲りません。

 しかし、幸村の巧緻と経験は、重長の大胆と若さに地力で勝り、幕府方はじりじりと後退した後、ついに壊乱、武田家以来の赤備えの騎馬隊に踏みにじられました。

 幸村が「関東勢は百万もいるというのに、男は一人もいないのか」と放言したのは、このときのことです。しかし、幸村の目には、若輩の身で、おじずひるまず、自分に立ち向かってきた重長は、また別のもの、つまりは男として映っていたようです。

 その夜、激しい戦いに疲れ果て、ひっそりと静まりかえった重長の陣に、輿を伴った一人の武士が訪れました。彼は幸村の部下で、手紙を預かっていました。

 重長が手紙が開くと、そこにはこう書かれていました。

「幕府方であなたに勝るものは一人もいない。わたしの運命も明日極まるだろう。我が子らの命を託すので、どうか救ってやって欲しい」

 輿のなかをのぞくと、玉のような子供が二人、すやすやと眠っています。幸村の次男、大八と、三女、お梅でした。重長は幸村の遣わした武士に諾と返事しました。

 翌日、幸村は家康の本陣へ伝説となる突撃を敢行したあと戦死。大坂城も燃え、長かった戦国の日々は、その残酷も悲惨も、きらめきも夢も、何もかもすべて終わりました。

 しかし、重長の幸村との約束を守る戦いは、このときから始まります。

 家康をあわやのところまで追いつめた真田家残党への幕府の追及は厳しく、その手は当然、重長の間近にまで迫ってきました。

 しかし、重長はお梅についてはたまたま下女として雇ったものとして空とぼけ、大八については、京都で死亡したという偽情報を流してかく乱しています。

 そして、大坂の陣から5年後の1620 (元和6)年、美しい女性へと成長したお梅と重長は正式に結婚しました。二人の不思議な縁については、拙作『九度山秘録』でも取り上げています。

 大八も成人してから、片倉家の家臣となり、姓をもらって片倉守信と名乗りました。彼の子孫は、幕府の追及のほとぼりが冷めた後、真田姓に戻り仙台真田家となって、今に至るも幸村の血を伝え続けているのです。

『なぜ闘う男は少年が好きなのか』より構成】