イラスト/フォトライブラリー
『江戸の性事情』(ベスト新書)が好評を博す、永井義男氏による寄稿。

 按摩をしながら義太夫の三味線も教える、嶺の都という盲人がいた。神田明神下御台所町の治郎兵衛という富裕な商人が、「それは好都合じゃ。按摩を受け、おまけに三味線も習える」と、嶺の都のもとにかよって按摩の療治を受け、三味線の稽古も始めた。

 嶺の都と女房のおすまは、治郎兵衛が妻に先立たたれて独り身であり、しかも金を持っているのを知って、誘惑して金をせびることにした。
 治郎兵衛はすでに七十に近い年齢だったが、およそ四十歳も年下の女にさそわれ、ころりとまいってしまった。ひそかに逢引を続けながら、おすまの求めに応じて金を渡した。

 そのうち、おすまは盲人の女房でいるより、富裕な商人の女房になったほうがよほどいいと思うようになった。これを知って、嶺の都が怒り、「人の女房と間男をした。お奉行所に訴える」と、騒いだ。
 あいだにはいる人があって、十五両で内済(示談)が成立し、おすまは嶺の都と離縁し、あらためて治郎兵衛にとついだ。天保十年(1839)のことである。

 おすまは治郎兵衛の女房になり、贅沢三昧ができるようになったが、そうなるとそうなったで、亭主の高齢が物足りなくなってきた。さすがに治郎兵衛もおとろえ、夜のいとなみがなくなったのである。
 治郎兵衛は高松藩(香川県高松市)の御用達商人だったため、藩の関係者がしばしば訪れる。そのうち、高松藩の茶道坊主の大島素仙とおすまとのあいだに関係ができた。素仙はおすまより八歳年下だったが、女に夢中になり、職務もおこたるようになったため、ついに高松藩から追放された。
 これを知り、おすまはあっさり素仙を捨て、べつな男に乗り換えた。

 おすまの裏切りを恨んだ素仙は嘉永四年(1851)六月二十七日の深夜、刀を用意して、治郎兵衛の屋敷に忍び込んだ。すでに治郎兵衛は寝床にはいり、おすまはまだ起きていた。
 男が侵入してきたのを見て、「きゃー、盗っ人だよ」と、おすまは悲鳴をあげて逃げ出す。追いすがった素仙はまず肩先に斬りつけ、二の太刀で腕を斬り、女が倒れたところを乳房に斬りつけた。最後に剣先で喉を突き、とどめをさした。

 このまま逃亡していたら、治郎兵衛が富裕なことから、押し込み強盗のたぐいと思われ、捜査は難航したかもしれなかった。ところが、素仙は動転していたため、血の付いた刀や鞘、さらに顔をかくすためかぶっていた笠まで放り出して逃げ出した。残された笠には持ち主の名前が記してある。これで、すぐに素仙の仕業とわかった。

 七月二日、逃げ切れないとわかった素仙は千住で首をつって自害した。おすま四十五歳、素仙三十七歳だった。

『藤岡屋日記』に拠った。当時の女の四十五歳といえば、老婆といってもいいくらいの年齢である。そんなおすまに、三十七歳の男がふりまわされたのである。
 密通をしている人間が、相手がほかの男(あるいは女)と密通すると、裏切られたと感じる。そもそも自分も密通をしているのだが、相手の裏切りを恨む。この心理は、いまも昔も変わらないようだ。