天下統一を目前に控えた織田信長は、
本能寺の変で突然の死を遂げた。
最期まで自ら槍を取り戦った信長の人生は
命知らずの破天荒なものだったのか?
信長は死をどのように捉えていたのか?
そして、ついに見つからなかった死体の行方は?
未だ謎多き信長の人生と死に迫る!
 

 天正10年(1582)5月29日、信長は上洛した。『信長公記』によると、小姓衆20~30人を伴っただけだったという。

 だが、『阿弥陀寺過去帳』など他の史料を見ると、信長に殉じた者はもっと多かったようである。主君に先んじて本能寺に入っていた家臣が数十人いたのだろう。

 この時の信長の上洛は、西国への出陣のためのものであった。6月4日に京都を出陣する予定だったという。その2日前に変が起こったわけである。

 この時の作戦は二方面、中国方面と四国方面である。中国方面では、羽柴秀吉が備中高松で毛利軍と対峙している。ここは、すでに講和をめぐる交渉の段階に入っている。それに対して、四国方面の戦いはこれからである。信長の三男神戸信孝の率いる軍勢が堺近辺に集結し、まさに四国へ向けて渡海しようとしているところである。

 信長は、この4年間ほど戦いの指揮を執っていない。今回も、実際の指揮は長男信忠に任せるつもりだったのだろう。淡路あたりに陣取って、全体の様子を眺めている予定だったのではなかろうか。

 中国・四国の平定が天下統一完成の実質的な仕上げになることを、当然信長は心得ていた。東方では、この年3月に宿敵武田氏を滅ぼした。北条氏をはじめとする関東・奥羽の群雄は実質上従属している。中国・四国が片付いたなら、九州の大友・島津はもう戦う気力はあるまい。