天下統一を目前に控えた織田信長は、
本能寺の変で突然の死を遂げた。
最期まで自ら槍を取り戦った信長の人生は
命知らずの破天荒なものだったのか?
信長は死をどのように捉えていたのか?
そして、ついに見つからなかった死体の行方は?
未だ謎多き信長の人生と死に迫る! 
 

 ところが、信長は気が付かなかった。その自信の陰にあった落とし穴を。それは、今まさに行おうとしていた四国攻めの裏にあったと思われるのである。ではここで、信長が四国攻めに至るまでの経緯について説明しよう。

 土佐の長宗我部元親が信長に通じてきたのは天正3年のことである。信長はその求めに応じて、元親の嫡男弥三郎に「信親」の諱を与え、元親には四国切り取り次第領有を許す旨申し送った。元親はそれを信じて、阿波などで三好氏を圧迫、四国の領有を進めていった。

 当時は信長も長宗我部氏も三好氏を敵としていたからそれでよかったのだが、間もなく三好氏が信長に降参したため事態は面倒になった。同9年末、信長はやにわに元親の四国領有にストップをかけたのである。

 明智光秀は、ずっと長宗我部氏との交渉役を務めてきた。だから、信長の四国政策の転換にあたり、必死になって元親を説得したようである。しかし、これに関しては元親の言い分のほうに理がある。光秀は板ばさみになって苦悩したものと思われる。特に光秀の家老の1人斎藤利三みは、元親の正室の義兄にあたる。利三の信長に対する憎悪が、光秀の背を押した可能性もあるだろう。

<覇王・織田信長の死生観⑥に続く>