日清戦争を終わらせた2大決戦「鴨緑江・旅順口の戦い」と「威海衛の戦い」の真相に、連載形式で迫る。  
公島砲台の占領

旅順に匹敵する清軍の威海衛要塞を
日本陸海軍の合同作戦で攻略

前回はこちら:勇猛果敢な旅順攻略で一気に評価を上げた乃木希典

  第2軍司令官の大山巌大将は明治27年(1894)12月2日、連合艦隊初代司令長官の伊東祐亨中将と会談、6日、連名で山東半島の威海衛(現・威海市)攻略戦を提言した。この間、伊藤博文首相も「直隷(北京とその周辺)決戦は清国政府を瓦解させるだけでなく列国の干渉を招く」としてこれを避け、威海衛と台湾の攻略をするよう意見書を提出していた。

 これを受けた大本営は9日、冬季間に威海衛を攻略するとの方針を決めた。大山司令官にとって頭が痛かったのは、破竹の勢いで清国軍を打ち負かしてきた乃木希典少将がいないことである。
 というのも第1軍の第3師団(師団長・桂太郎中将)は海城を占領後、清国軍の反撃を受けて苦境に陥った。病気を理由に解任された山県有朋の後任として司令官に就いた野津道貫中将(第5師団長)は第2軍に救援部隊を要請。大山は断ったが、大本営の命令を受け、第1師団の乃木旅団に砲兵隊や騎兵隊をつけて混成旅団とし、救援に向かわせたのである(乃木旅団の加勢で第3師団は窮地を脱し、酷寒のなか進撃を続ける)。

 第1師団主力は旅順方面の警備のために参加せず、威海衛攻略作戦には第2師団と第6師団であたることになった。
 威海衛は旅順に匹敵する要塞であり、湾岸沿いや湾口の劉公島などに25の砲台を配置、約160もの大砲が睨みをきかせていた。守備兵は約2万人。湾内には旅順から移ってきた提督・丁汝昌率いる北洋艦隊が控えていた。

◎次回は5月10日(水)に配信予定です。