『魏志』倭人伝を読み解き、「邪馬台国=九州説」を徹底検証する第5回!
「邪馬台国=九州説」の有力地、吉野ヶ里遺跡の真相とは――?
吉野ヶ里遺跡


『魏志』倭人伝に書かれた
施設が揃うのは吉野ヶ里遺跡だけ

 次に、考古学的に検討してみよう。

 考古学的にみても「邪馬台国=九州説」は「邪馬台国=大和説」に比べて、決して不利とはいえない。

 まず、『魏志』倭人伝に記されている事物で、考古学的に検証できるものは圧倒的に北九州のほうが多く出土していることである。福岡県と奈良県との出土品の数を比較すると、鉄の鏃(やじり)、鉄の刀、剣、矛、絹、魏晋鏡、勾玉、いずれをとっても福岡県のほうが圧倒的に多い。例えば、『魏志』倭人伝には、倭人は「鉄の鏃」を用いたと記しているが、福岡県からは奈良県よりも、100倍近くもの「鉄の鏃」が出土しているのである。

 そこで私は「邪馬台国東遷説」の立場に立つ。かつては北九州にあった邪馬台国勢力が、東遷し、畿内に進出してヤマト政権をたてたと考える。ヤマト政権による全国統一に、大きな役割を果たしたものがあるとすれば、それはおそらく、切れ味がするどく、耐久力のすぐれた鉄の武器であろう。チンギス・ハンの馬、現代における核兵器。戦争においては、常に、秀れた新しい武器が、大きな役割を果たすゆえである。

 また『魏志』倭人伝は、倭人の墓制について「棺(かん)あって槨(かく)なし」と記す。槨とは、棺の外箱のことであり、北九州の甕棺(かめかん)や箱式石棺は、この「棺あって槨なし」に合致する。しかし、例えば、奈良県のホケノ山古墳の場合、棺のほかに木槨があって、『魏志』倭人伝の記述とは合致しない。

 また、ホケノ山古墳からは「画文帯神獣鏡」といわれる鏡が出土している。この鏡は、中国の華南の揚子江(ようすこう)流域で主に使われた鏡である。華南の湖北省鄂州市からは86面が出土、同じく華南の浙江省からは46面が出土している。


《邪馬台国が九州にあったとする理由 第6回へつづく》