常に新たな視点を持ち、従来の研究では取り扱われなかった古代史の謎に取り組み続けてきた歴史作家・関裕二が贈る、『地形で読み解く古代史』絶賛発売中。釈然としない解釈も、その地にたてば、地形が自ずと答えてくれる!? 「瀬戸内海と河内王朝を地理で見直す」をシリーズで紹介いたします。

大阪の繁栄は瀬戸内海を抜きでは語れない

▲しまなみ海道 写真:関裕二

 約十年前、しまなみ海道を自転車で走ってみた。今でこそ、テレビや雑誌に取りあげられ、

 また海外から大勢の旅行者が押し寄せる観光スポットになったが、当時はまだ、ほとんど知られていなかった。そのとき気付いたのは、瀬戸内海側から見た中国地方の景色が、瀬戸内海の多島海の続きに見えたことだ。山がちで、無数の島がぷかぷか浮いているように思えた。

 考えてみれば、山陽新幹線にトンネルが多いのは、沿岸部に平地が少ないからで、むしろ、四国の北岸の方が、穀倉地帯だったのではないか、と思えることだ。讃岐のうどんが有名なのは、香川県に広大な平地があって、コムギを生産していたからだろう。もちろん、それが古代に遡るわけではないのだが、中国地方の沿岸部に比べて、香川県に平地が多かったことはたしかであり、逆に本州側の人々の方が、海で大いに活躍し、だからこそ吉備が栄えたということなのだろう。

 瀬戸内海こそ、ヤマト政権にとって、大切な流通の大動脈だったのだ。そしてヤマト建国後、日本海と瀬戸内海は、覇を競い、日本海連合は敗れ去った。出雲は没落し、山陰地方全体も、勢いを失ったのである。

 瀬戸内海の優位性は、北部九州と大阪をつないでいることだ。しかも、すでに触れているように、潮の満ち引きを利用して、労力なく船を動かせる。潮の流れのないときは、()ぎ、帆を張っただろうが、多島海の利便性は、何といっても、速い潮であり、瀬戸内海は古代版ハイウェイといっても過言ではなかった。大量の物資を運ぶのに、船ほど便利な乗り物はないのだ。

 ちなみに、海の民と船は、川を上ることもできた。馬に引かせたのだ。九州の隼人は、海の民でもあったが、騎乗も得意だった。海の民は、時に馬を船に乗せ航海し、川を遡上したのだ。だから、大阪の淀川周辺には、古代の牧が設置され、馬が飼われていたのである。

 継体(けいたい)天皇が越から畿内に向かうきっかけになった河内馬飼首(かわちうまかいのおびと)(あら)()が、まさに淀川周辺の牧と大いにかかわっていた。

 近世に至っても、大阪が日本を代表する商都だったのは、瀬戸内海があったからだ。特に越方面から近畿地方と続く物資輸送は、対島海流に逆らわず、若狭湾→近江→畿内のルートが使われていたが、江戸時代に、日本海→下関→瀬戸内海→大阪に移行したのだった。

 このように、大阪の今日の商都としての繁栄は、瀬戸内海の重要性に気付いて、はじめて合点が行くのだ。そこでようやく、大阪の古代と地理の話ができる。

(『地形で読み解く古代史』より構成)

明日は瀬戸内海と河内王朝の謎シリーズ④「使い物にならなかった古代の大阪」です。