第39回 
「甲斐」VS「やすい」

 

苦労か安易か、どちら?

 

 「やり甲斐」とか「生き甲斐」とか、近頃では深く考えもせず、綺麗に響くだけの理由でこれらの言葉が使われているようである。もともとは、苦労や苦難に耐えただけの見返りがあった、という意味で用いる言葉であって、やることが楽しい、生きることが面白い、というシンプルな意味では全然ない。むしろその逆なのだ。大人たちが、無意識に綺麗事を繰り返すから、今の若者は、きっとそこを誤解しているだろう。
 九割の苦しみのあとに一割のリターンがあったときに、「甲斐があった」と言う。ようするに、本来は「抵抗感」みたいなものを強調して表現する言葉なのである。
 たとえば、「食べ甲斐がある」といえば、量が多くて食べるのに苦労する、という意味だ。「食べやすい」ではなく、「食べにくい」に近い。したがって、「やり甲斐」と「生き甲斐」は、「やりにくさ」「生きにくさ」に近い意味だから、みんなが探し求めている青い鳥のドリームでは全然ない。
 なにしろこの頃は、料理を褒めるのに、「食べやすい」と言ったりする。「へえ、そうなのか。食べやすいことは良いことなのか」と僕はびっくりする。それ以前に、料理を褒める言葉が、「美味しい」「やわらかい」「ジューシィ」の三つしかなくて、もう少しボキャブラリィを蓄積してからレポートしてほしい、と常々感じているところだ。
 類推するに、今風にいえば、仕事は「やりやすい」方が、人生は「生きやすい」方が断然グッドなのである。そう思っている人たちが大半だろう。それなのに、無理に「やり甲斐」とか「生き甲斐」なんて見つけようとするから、自己矛盾に陥ってしまう。矛盾している点が、わかりますか?
 少なくともどちらかに決めた方が良い。少々苦労をしたいのか、いや全然苦労はご免だというのか。はたしてあなたはどちら?

 

探して見つかるものではない

 

 根本的に間違っている点がある。それは、苦労か安易かどちらにせよ、「やり甲斐」や「生き甲斐」を誰かからもらおうとしていることだ。「見つけよう」としていることだ。そういうものが、どこかにあると信じている。だから、「この仕事にはない」「私の周囲にはない」となってしまう。
 その言葉の本来の意味が示すとおり、抵抗に遭いながらも、それを成し遂げたとき、本当の「価値」があなたの内から生まれる。したがって、やってこそ、生きてこそ、本人だけが感じるものなのである。周りの誰にもそれは見えないし、誰かが用意してくれたものでもない。
 これは、たとえば、「幸せ」とか「楽しさ」でも同じこと。それを探そうとするのが間違っている。そういうものは、どこにもない。既に存在しているものではなく、これから、生まれてくるものであり、それはあなた自身が作るしかないものなのである。
 だから、苦労はしたくない、生きやすい人生で良い、楽しければそれで良い、とだらだらと日々を過ごしていると、いずれは手詰まりになる。何故なら、初めに「怠ける」という小さな楽しさを先取りして、あとから来る「ツケ」を待つ生活になっているからだ。ようはローンみたいな生き方といえる。楽しさの利子は馬鹿にならない。もしまとまった楽しさを味わいたかったら、コツコツと溜めていくしかない。
 というような話を、実際に僕は人にしたことがない。そんな話を若者に語れば、「年寄りくさい」「教訓はご免だ」と反発されるだけだ。酒の席でなら話せるかもしれないけれど、そこまで格好悪いことをする理由を僕は持っていない。
 ただし、一つだけ言いたいのは、これは経験則ではなく、単純な理論だということである。つまり計算できること、ものの道理だ、という点だ。年寄りとか若者とか無関係に、平均すればそうなっている。逆らえない法則といっても過言ではない。だから、誰が言ったとか、あいつは気に入らないとかで済ませないで、多少は冷静になって考えてもらえれば、と思う。それができる人だけが、大きな失敗を免れるだろう。

 

いつタイヤを交換するか

 

 毎年四月の終わり頃に、冬用タイヤからノーマルに履き替える。十一月から冬用なので、ほぼ半年間が冬用である。地球と太陽の関係からいえば、夏と冬が半々なのは自然かもしれない。ちなみに、樹の葉が茂っているのもだいたい半年間である。
 夏はとにかく楽しい。綺麗だし明るいし、とにかく活動的になれる。幸い、ここではクーラが必要ない。車のクーラも使わない。日本の夏とは、だいぶ違っている。

 

今年の冬は雪が少なく、除雪作業がとても楽だった。これから夏に向けて、緑の季節になる。