イラスト/フォトライブラリー
『江戸の性事情』(ベスト新書)が好評を博す、永井義男氏による寄稿。

 女を働かせ、自分はぶらぶらしている。そのくせ嫉妬深く粗暴な性格で、邪推からカッとなり、刃物を持って暴れ、女ばかりか周囲の人まで巻き込んで殺傷する――。
 こんな身勝手な男がおこした悲惨な事件がしばしばテレビや新聞で報じられる。とくに現代の傾向ではない。江戸時代にもこんな男がいたことを『式亭雑記』が記している。
 文化八年(1811)のことである。

 浅草堂前には切見世があった。切見世とはちょんの間の、格安の女郎屋である。吉五郎という男が田舎の遊女を、楽をさせるからと言って江戸に連れ出してきた。「当分、おめえが稼いでくれ。しばらくの辛抱だ」と、女を堂前の切見世で働かせた。
 ところが、吉五郎のほうはいっこうに働く気配がない。女は愛想をつかし、切見世の親方と相談して、吉五郎に相応の手切れ金を渡して別れ、田舎に帰ることにした。

 これを聞き、吉五郎は邪推した。
「親方と示し合せて、俺から逃げるつもりだな。ほかに男ができたに違いない」
 怒りをつのらせた吉五郎は出刃包丁を持って、女のもとに押しかけた。しかも、包丁がすっぽ抜けないよう、柄を紐で手にくくりつけておくという念の入れようだった。明確な殺意がうかがえる。
 五月十一日の昼ごろのことである。

 家の中にはいると、女はたまたま昼寝をしていた。吉五郎は女の上にまたがり、左手で口をおさえながら、包丁で切りつける。女が暴れ、吉五郎の指を二本、噛み切った。騒ぎを聞いて現われた親方にも切りつけ、さらに駆けつけた近所の人にも切りつけたあと、浅草の広小路に向かった。

 返り血をあび、手に包丁を持った吉五郎を見て、人々は遠巻きにしながらもあとからついてくる。
 田原町三丁目の、大道芸人で歯磨き売り松井源水の家にやってくると、吉五郎は玄関で、「吉はいるか」と、声をかけた。どういうわけか吉五郎は、女の相手が、松井源水の弟子の源吉と思い込んでいたのだ。ただし、顔は知らなかった。
 たまたま源吉は風邪で寝ていた。もうひとりの弟子は吉兵衛といったが、「吉はいるか」といわれて、自分のことだと勘違いして、玄関に出て行った。

「なんだね」
「吉はてめえか」
 言いざま、吉五郎が切りつけた。右腕を切られた吉兵衛は必死で逃げる。そのあとを、包丁をふりかざした吉五郎が追った。吉兵衛は逃げながら泣き叫んだ。
「人違いでござります。ご免なされませ、ご免なされませ」
 しかし、吉五郎は執拗に追いかける。

 けっきょく吉兵衛は逃げおおせた。相手を取り逃がした吉五郎は、「憎い吉の野郎めだ。こっちは命を投げ出してする仕事だ」とつぶやきながら、放心状態で堂前のほうに帰っていく。その後、吉五郎は奉行所の役人に召し捕られた。
 吉五郎がどんな処分を受けたかは記されていないが、当然死罪であろう。