ナショナリズムの勝利というべきアメリカのトランプ現象、そこには「リベラリズム」の後退があった。新刊『日本人にリベラリズムは必要ない。』を上梓した、田中英道氏が昨今の世界情勢を読み解くキーワード「リベラル」を、その語義から解きほぐす。

リベラルは「隠れマルクス主義」だ

 プロレタリアート革命は不可能であるという事実から、左翼という言葉のとれた、または左翼という言葉を意識的にはずしたリベラルは、同時に、自らの思想からマルクス主義という立場を隠し始めました。なぜならマルクス主義は、不可能が証明されたプロレタリアート革命を理論に含んでいるために矛盾を起こすからです。

 

 また、「自分自身はマルクス主義ではない」と思っているリベラルは、それを知らずに、あたかもやさしく、中立であるかのように振舞っているリベラルという言葉にごまかされて自称しているだけのことに過ぎません。

 リベラルは「隠れマルクス主義者」です。「偽装された左翼」と言ってもいいでしょう。ソ連崩壊で明らかになったように、事実上不可能となったプロレタリアート革命に代替する革命の方法をリベラルは模索しました。その模索の結果として何が出てきたかと言えば、たとえば「フェミニズム(男女同権論、女権拡張論)」がそうですし、「ジェンダー・フリー(社会的性別からの解放)がそうですし、「カルチュラル・スタディーズ(多種多様な文化的行動を主に権力との関係から研究する学問および政治的批判・運動)」や「多文化主義(異なる文化を持つ集団は対等な立場で扱われなければならないとする思想および政策)」などがそうです。

 リベラルは、マルクスの言う資本主義に生じる矛盾の結果を、すでに否定されたプロレタリアートの「必然的貧困」ではなく、「人間疎外」に変換していったのです。「疎外」もまた、マルクスの哲学用語として、1970年代、進歩的知識人と呼ばれた人々の間でずいぶん流行った言葉です。

「出世ができない」「やりたいことができない」という個人的な不満から「国が応援してくれない」「福祉が十分ではない」という国に対する不満まで、一般の中間層においても普通の社会に生きていれば皆、そういう疎外感を持つのは当たり前です。リベラルはそれを利用します。

「今は疎外されているけれど未来はよくなる」「人々が完全に満たされる社会になる」という幻想を与え、現在の共同体や社会、国家のありかたを批判し、否定します。

 ここでひとつ注意しておきたいのは、「批判」という言葉です。批判されるのは、批判される側に問題があるからだと考えがちです。しかし、リベラルにとって重要なのは、問題ではなく、批判(、、)する(、、)行為(、、)そのもの(、、、、)です。リベラルには「批判理論」という、批判すること自体が意味と意義を持つ理論がちゃんとあります。

「批判ばかりで何もないではないか」「批判するがための批判ではないか」といった苦言がリベラルにまったく届かない理由はまさにここにあるのです。

(『日本人にリベラリズムは必要ない。』より構成)