常に新たな視点を持ち、従来の研究では取り扱われなかった古代史の謎に取り組み続けてきた歴史作家・関裕二が贈る、『地形で読み解く古代史』絶賛発売中。釈然としない解釈も、その地にたてば、地形が自ずと答えてくれる!? 「瀬戸内海と河内王朝を地理で見直す」をシリーズで紹介いたします。

武力で征服した者は、武力で政権を転覆されることを恐れる

乙巳の変の舞台となった、奈良の伝飛鳥板蓋宮跡

 くどいようだが、なぜヤマトに都が置かれたかといえば、最大の理由は、西からやってくる敵をはね返す力があったからだ。もし三王朝交替論者がいうように、西から来た征服者が、ヤマトを倒したとして、あるいはヤマトを圧倒して屈服させたとしても、なぜヤマトの西側の大阪、河内に、都を置く必要があっただろう。
 武力で征服した者は、武力で政権を転覆されることを恐れる。防衛力がなく、しかも、水害に悩まされ続ける河内に、なぜ好きこのんで住む必要があったのか。ヤマト黎明期のように、東側の勢力がふたたびヤマトに集まりはじめたら、手も足も出なくなるではないか。
 ヤマトに攻め入ったのなら、河内には、戻るはずがない。ヤマトを占領し、少なくとも政権が安定するまでは、ヤマトに都を造るのが自然だ。
 また、「ヤマトの東の勢力が恐ろしい」というのなら、もうひとつ策がある。それは最終章で語るが、河内という選択肢ではない。
 政治を刷新しようと、大阪に遷都して、痛い目に遭ったという実例がある。それが、七世紀半ばの孝徳天皇だ。いわゆる乙巳(いっし)の変(654)ののちの大化改新(たいかのかいしん)(646)であり、この改革事業は苦い教訓を残して頓挫していたのだ。
 そこで大化改新が大阪で失敗した事情を説明しておきたいが、その前に明らかにしておかなければならないことがある。
 乙巳の変、大化改新が、中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌足による天皇家中興のクーデターと、改革事業と信じられてきたのは、『日本書紀』に書いてあることを、鵜吞みにしていたからだ。
しかし、『日本書紀』編纂時の権力者が中臣鎌足の子・藤原不比等なのだから、この文書が中臣鎌足の業績を顕彰するのは当然のことだった。だから、『日本書紀』の大化改新をめぐる記事は、慎重に読みなおす必要がある。いまだに誤解が解けていないから、古代史の多くの謎も解けないままなのだ。
『日本書紀』の記事を追ってみよう。蘇我本宗家(蘇我蝦夷や入鹿)が滅亡して皇極(こうぎょく)女帝は皇位を下りた。息子の中大兄皇子が即位すべきだったが、中臣鎌足は中大兄皇子に対し、「年功序列を考慮し、人々の期待している人を」と諫(いさ)ために、皇極の弟の軽(かる)皇子が即位した。これが、孝徳天皇だ。
 ここで不思議なことが起きる。孝徳天皇は、蘇我氏や親蘇我派の人脈を重用しているのだ。そして、中大兄皇子と中臣鎌足は、孝徳朝でほとんど活躍をしていない。
 もうひとつ問題は、孝徳朝の重臣が、次々と変死し、政権の屋台骨が崩れていく。しかも、悪さをしていたのは、中大兄皇子と中臣鎌足だった可能性が高い。

『地形で読み解く古代史』より構成)

明日は瀬戸内海と河内王朝の謎シリーズ⑧「地形と地理を無視すれば政権は倒れる」です。