常に新たな視点を持ち、従来の研究では取り扱われなかった古代史の謎に取り組み続けてきた歴史作家・関裕二が贈る、『地形で読み解く古代史』絶賛発売中。釈然としない解釈も、その地にたてば、地形が自ずと答えてくれる!? 「瀬戸内海と河内王朝を地理で見直す」をシリーズで紹介いたします。

孝徳天皇の事業は、無残な結果になった理由

 孝徳最晩年、中大兄皇子は「飛鳥遷都」を献策し、受け容れられないとみるや、役人や孝徳の皇后らを引き連れて、強引に飛鳥にもどってしまったのだった。いったいこれは、何を意味しているのだろう。
 まず、中大兄皇子と中臣鎌足が正義の味方で、蘇我入鹿が大悪人という『日本書紀』の描いた勧善懲悪の世界から、脱していただきたい。また、蘇我氏全盛期に担ぎ上げられた皇極天皇は、反蘇我派とは考えにくいこと、親蘇我派の人脈を重用した孝徳天皇も、姉同様、親蘇我派であった可能性は高い。
 そう考えると、『日本書紀』の記事を、根底から疑ってかかる必要がある。まず、「中大兄皇子と中臣鎌足の蘇我入鹿暗殺によって、蘇我政権は転覆した」という記述は、まったくのデタラメだろう。要人暗殺は起きていたろうが、蘇我政権は、継続していたのだ。
 たとえば、孝徳天皇は難波(なにわ)遷都(せんと)を急いだが、このとき、老人たちは口々に、「そういえば、奈良のネズミが大阪方面に向かっていたのは、難波遷都の前兆だったのだ」と語り合ったという。

難波宮(大阪市中央区)写真:関裕二

 その、ネズミの大移動は、蘇我入鹿存命中の出来事で、この記事は、難波遷都が蘇我入鹿らの発案だったことを暗示している。律令整備の根幹となる都城の建設を目論んだのだろう。ここでは省略するが、律令整備最大の功労者・物部氏の地元に都を遷そうと考えたのかもしれない。
 孝徳天皇は、蘇我入鹿の改革事業を継承したのだろう。しかし、タイミングが悪すぎた。蘇我氏が盤石だったころは、難波遷都は大いに有効だっただろう。しかし、蘇我本宗家が滅び、政権に不安材料が残る中で、難波遷都は急ぎすぎた嫌いがある。
 律令制度は旧豪族から土地を奪わねばならない。土地と民を国家の物にして、農地を公平に民に貸し出し、旧豪族には役職と官位、サラリーを与える制度だ。一度豪族は裸にならねばならず、不満と不安が充満していただろう。そういう不安定な時期に、難波に都を遷そうとしたところが、まちがいだったのだ。

蘇我入鹿首塚と飛鳥寺

 反動勢力が奈良盆地で反旗を翻し、政権に圧力をかけ、中大兄皇子や中臣鎌足がそれをけしかけ、孝徳天皇の晩年に、政権を転覆させることに成功したのだ。せめて、飛鳥にいて制度を変え、それから都を遷せば成就したかもしれない。
 孝徳天皇の事業は、こうして「地形と地理を軽視した」ために、無残な結果となった。蘇我本宗家が奈良盆地をしっかり掌握していた時代なら、難波遷都も、成功しただろうが、蘇我本宗家が倒れたことで、箍(たが)がゆるみ、豪族たちの改革事業に対する反発が、噴出したのだろう。

『地形で読み解く古代史』より構成)

明日は瀬戸内海と河内王朝の謎シリーズ⑨「独裁者ではない大王がなぜ巨大古墳を造ったのか?」です。