常に新たな視点を持ち、従来の研究では取り扱われなかった古代史の謎に取り組み続けてきた歴史作家・関裕二が贈る、『地形で読み解く古代史』絶賛発売中。釈然としない解釈も、その地にたてば、地形が自ずと答えてくれる!? 「瀬戸内海と河内王朝を地理で見直す」をシリーズで紹介いたします。

天智天皇の孤立、弟の大海人皇子は親蘇我派だった!

 中大兄皇子は天智6年(667)に近江大津宮に遷都、翌年即位した(斉明天皇の崩御時に天智元年と記されるも、即位したわけではなかったのだ)。天智天皇の誕生である。

 ここで、「なぜ中大兄皇子(天智天皇)は地の利の悪い大津宮を選んだのか」その謎が解けてくる。ヒントとなるのは、皇太子に選ばれたのが、弟の親蘇我派の大海人皇子だったことだ。なぜ天智天皇は、宿敵を抜擢したのだろう。それだけ天智天皇の器が大きかったのだろうか。

 答えは簡単なことで、「天智天皇の人気が無かった」からだ。近江遷都の時、人々は不満を漏らし、各地で「水流れ(火事。放火だろう)」が絶えなかったという。白村江の敗戦ののち、唐と新羅連合軍の襲来におびえ、各地に山城を増築し、ようやく情勢が落ちついたと思った矢先の遷都だ。誰もが不満を爆発させたのだろう。

外敵に備えた山城 
古代山城の一つという説がよく知られている鬼ノ城(岡山県総社市) 写真:関裕二

 

 もともと民衆も蘇我氏を支持していたのだろうから、天智天皇は孤立したにちがいない。だから、政権を運営維持するには、政敵(具体的には親蘇我派)と妥協するほか手はなかったのだ。そして、だからこそ、蘇我氏が推していた大海人皇子を、皇太子に据え、さらに蘇我系の豪族を重臣に取り立てたのだ。近江朝を、蘇我系豪族が席巻したのはこのためだ。

 ただし、天智天皇と大海人皇子の仲は修復されなかったようで、とある宴席で大海人皇子は槍を床に突き刺し、激怒した天智天皇は、大海人皇子を殺そうとしたという(『(とう)()家伝(かでん)』)。

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