常に新たな視点を持ち、従来の研究では取り扱われなかった古代史の謎に取り組み続けてきた歴史作家・関裕二が贈る、『地形で読み解く古代史』絶賛発売中。釈然としない解釈も、その地にたてば、地形が自ずと答えてくれる!? 「瀬戸内海と河内王朝を地理で見直す」をシリーズで紹介いたします。

鍵を握っていたのが県犬養三千代(あがたいぬかいみちよ)

 それにしても、なぜ聖武天皇は、藤原の血を引いていながら、反藤原派に転向したのだろう。地理と地形の古代史とは関係ないように見えて、この後大きな意味を持ってくるので、簡単に説明しておこう。

 最大の理由は、光明子の母・(あがた)犬養(いぬかい)三千代(みちよ)にあった。県犬養三千代は夫と子がありながら、藤原不比等のもとに嫁いでいった。そして藤原不比等の希望通り、後宮(こうきゅう)を支配していくのである。県犬養三千代という存在がなければ、首皇子の立太子もむずかしかっただろう。そこで県犬養三千代は「やり手の女」とみなされているが、夫や子の命を守るために、藤原不比等にいやいや従っただけだ(拙著『東大寺の暗号』講談社)。藤原不比等に逆らえば夫の命はないと踏んだのだろう。

 藤原不比等と県犬養三千代の間の娘が光明子で、一般にこの女性も「藤原の天下を築いた鉄の女」のイメージで語られるが、それは表向きの話であって、光明子は「藤原不比等の娘」を演じながら、仮面の下に「県犬養三千代の娘」という素顔が隠されていた。藤原氏全盛時代は、藤原氏のために働き、ひとたび藤原氏が没落すると、その正体を現した。夫・聖武天皇に、藤原氏がしでかしてきた悪行をすべて教え、聖武天皇に「天武天皇の子」の自覚を芽生えさせたのだろう。だから聖武天皇は、東国行幸を敢行したにちがいない。

奈良県庁から観た東大寺 写真:関裕二

 この、聖武天皇と光明子の存在意義が分からなかったために、8世紀以降の歴史も、誤解されていたのだ。

 藤原氏が最も恐れていたのは東国だった。政敵の蘇我氏が、東国と強く結ばれ、東海の雄族・尾張氏も、蘇我氏を後押ししていたからだ。それを、聖武天皇は分かっていたのだ。

藤原宮 (奈良県橿原市)写真:関裕二

 藤原不比等は和銅3年(710)に平城京を造営したが、この時旧豪族を代表する物部氏も追い落とし、ほぼ実権を握った。新益京(あらましのみやこ)(藤原宮)から平城京に移るとき、左大臣(今風にいえば総理大臣)石上(物部)麻呂を旧都の留守役にして捨て去ったのだ。

 藤原不比等や藤原氏の手口は陰険で、藤原氏に楯突く者、いうことを聞かない者は、容赦なく葬り去った。だから、多くの人々は藤原氏を恨み、平城京に移ったのちも、「飛鳥にもどりたい」と言い続け、古き良き時代を偲んだ。

 藤原氏(その中でも北家、摂関家)はこののち平安時代にかけて、「欠けることのない満月」と豪語するほどの力を得て、他者を圧倒する。また、「(きり)を突き刺す土地もない」と批判されるほど、日本各地の土地を私物化していった。本来律令の規定では、土地の私有は許されなかったが、律令の抜け道を利用して、藤原氏は私腹を肥やしていったのだ。

 その間、彼らは都で変事が起きると、必ず東に向かう3つの関を閉めた。これが、三関固守だった。そして、謀反人が東国に逃れ、軍団を率いて戻ってくることを、阻止したのである。

写真を拡大 奈良~平安の遷都概略図

 この「東を恐れる西」という図式は、思わぬ副産物を産み出していく。それが、長岡京(京都府向日市、長岡京市、京都市にまたがる)と平安京遷都だ。西にはめっぽう強いヤマトは、もはや必要なくなったのだ。そして、東に対抗しうる都が求められた。こうして、京都の歴史が始まっていく。

 地理と地形の裏側に、思わぬ歴史が埋もれていたのである。

『地形で読み解く古代史』より構成)

明日は瀬戸内海と河内王朝の謎シリーズ⑰ 最終回「そして京都の歴史が始まった」です。