大坂夏の陣・八尾若江の戦いを歩く⑥

前回はこちら:大坂夏の陣・八尾若江の戦いを歩く⑤

 玉櫛川が大河川で、その堤防が高く広かった大坂夏の陣の時代。木村重成は見渡す限りの平地の中、天然の水堀と堤防という土塁という地形を利用して幕府軍を迎え撃ち、みずから先頭に立って戦い、死んでいきます。安藤重勝の子孫が建てた重成の墓は現在地よりも50mほど東にあったといいますが、『河内名所図会』には重成の墓がこの堤の跡とおぼしき段の上にある風景が描かれています。
(画像は国文学研究資料館さんのHPでも公開されています。重成の墓は右側で、本文にも「ここに戦死す」とあります。)

 当時の川幅と堤防の存在を考えると、重成の戦死地はまさに以前の墓の位置あたりだったのでしょう。『大坂御陣覚書』『大坂陣日記』によれば、重成は堤防上に士卒を布陣させて幕府軍と堤防の争奪戦をおこない、先手が崩れるとみずから前線に出、後続の兵が裏崩れを起こしても退かず、鎌槍で指物を引き倒されて田の中に落ち、首を取られたとあります。最前線の堤防上で戦い、下の田に落ちて死んだのですね。

 ここで180°反転し、21号線に戻ります。その後は、北北西に進路をとれ、です。10分弱で木村重成像に到着。

 このあたりが重成の陣所跡とされており、すぐ南には彩色された重成像を祀る蓮城寺もあります。なぜこのあたりに重成が陣取ったのか? それは次回。