「いまを生きる」ということは、「今日が自分の最期の日になるかもしれない」と思って生きるということです。そうすることで、今日という日を、自分の人生の中で最善の一日にすることができるでしょう。(本文より)日本仏教に魅せられたドイツ人禅僧、ネルケ無方の新刊『今日を死ぬことで、明日を生きる』より、珠玉のエッセイを紹介。生きるヒントが必ず見つかります。

「個性がない」というのも立派な個性

 ひと昔前、「世界に一つだけの花」という歌が流行りました。多くの人が「オンリーワンの自分」を求めて、無理に他人と違う部分(=個性)を探していました。

 この「自分らしさ」に価値を置く風潮は、いまでも続いているようです。

 特に女性は、仕事やプライベートなど、あらゆる場面で自分をアピールすることを求められ、自らも率先して個性を演出しているはずです。

 確かに一人ひとりに個性はあります。人と違う部分があるのは当然ですし、あってもいい。

 しかし、「人と違うから」という理由だけで差別してはいけません。それぞれの命を尊いものとして受け入れ、認め合うことが大切なのです。

 きゅうりはまっすぐの形でなければ商品になりません。ちょっと曲がったきゅうりは、はじかれてしまいます。曲がったきゅうりも分け隔へだてなく、まっすぐのきゅうりと同じように店に並んでいればよいのですが、そうすると売れ残ってしまいます。

 日ごろ個性を大事にしている人が、きゅうりの個性を認めないのはなぜでしょうか。とても不思議です。

 みんなと違ってもいいように、みんなと同じでもいい。そんなことで悩む必要はないのです。

 さらに言えば、いくらオンリーワンの自分を追い求めても、「自分らしさ」がわからなければ、逆にプレッシャーとなります。

「世界に一つだけの花」が行きすぎ、個性があることが良で、個性がないことが不良であるように言われ続けたら、「私には個性がない。どうしよう……」という悩みが出てくるでしょう。

 でも考えてみれば、「個性がない」というのも立派な個性ではありませんか。

「自分らしさ」を追い求めるから辛くなるのです。

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 仏教の世界では、「自分」というものにとても懐疑的です。昨日、今日、明日の自分は、同じでなくて当たり前。天気のように移り変わっていく……。

 他人とかかわることでも、自分は変化していきます。相手も同じように変化し、私たちは無数のつながりで影響し合っています。「自分」や「私」は、さまざまな要素が絡からみあって、いまこの一瞬に立ち上がる、幻のようなものです。

ネルケ無方 撮影:さとうわたる

 禅僧である私も、テレビを観たらその情報に流されたり、本を読んだら賢くなったつもりになる。しかしそれは、一杯のコーヒーで目を覚ましたり、一杯のお酒で酔ったりするようなものです。

 ふだん私たちが、「自分の意見」「私の思い」と呼んでいるのは、その程度のものなのです。

 アイデンティティを追い求めることを否定はしませんが、むしろ大事にすべきなのは、他者と「共感する力」ではないでしょうか。日本人はこの能力に長けているはずです。

 幻想の自分らしさより、みんなと共通している部分をもっと大切にしてほしいと思います。

大切なのは「共感する力」。
つながっている感覚を持つ。

今日を死ぬことで、明日を生きる』より 明日は『「使われている」

という気づき』⑩です。