イラスト/フォトライブラリー
『江戸の性事情』(ベスト新書)が好評を博す、永井義男氏による寄稿。

 現代、わが国では夫婦の三組に一組が離婚するという。
 いっぽうの江戸時代、妻に先立たれた男が後妻を求めることはあっても、一般に離婚や再婚は少なかったと思われているのではなかろうか。
 とくに、女が再婚するのは少なかったと信じられているのではなかろうか。女は夫と死に別れても貞操を守るというわけである。

 ところが、実際は離婚も、女の再婚も多かった。
 その実例を、滝沢馬琴の家族に見てみよう。馬琴一家をえらんだのは、馬琴が記録魔だったため、家族関係がくわしくわかるためである。

 馬琴は二十七歳のとき、飯田町中坂下の下駄屋の入婿(いりむこ)になった。相手は下駄屋の娘のお百、三十歳。馬琴が初婚だったのに対して、お百は再婚だった。
 お百は一度婿をもらったが折り合いが悪く、離縁したのだ。馬琴は後釜にはいったといえよう。馬琴とお百のあいだには一男三女が生まれた。

 長女のおさき(崎)は二度の結婚をしたがともに離縁となり、文政七年、三十一歳のときに婿をもらい、ろうそく屋をいとなんでいた。しかし、亭主が天保八年、51歳で死去したことから、翌年、二度目の婿を迎えた。
 けっきょく、おさきは四度の結婚をしたことになる。 

 次女のお祐は紙屑問屋の息子と結婚したが、二年後の文化十二年に離縁となり、いったん馬琴夫婦のもとに戻った。
 翌文化十三年、呉服のせりを業とする男と再婚した。二男三女を生んだが、うち二人は早逝。二度目の夫は借金を作ったあげく、妻子を捨てて出奔した。

 長男の宗伯は文政十年、三十歳のときに医者の娘のお路(みち)二十二歳と結婚し、一男二女をもうけたが、三十八歳で病死した。

 三女のお鍬は文政九年、二十七歳のときに、宇都宮藩の用人と結婚した。夫は前妻とのあいだに子供がひとりいる再婚で、三十五歳だった。

 こう見ていくと、長女のおさき、次女のお祐、三女のお鍬はみな「まとも」な結婚ではない。ここで言う「まとも」は、一般に江戸時代の結婚としてイメージされている、男女ともに初婚が普通で、妻は夫に死に別れても後家を通す――である。その意味では、馬琴自身の結婚も「まとも」ではなかった。
 まともなのは長男の宗伯とお路の結婚だが、しかし宗伯は三十八歳という早死にだった。

 息子の宗伯が早死にし、宗伯の男子(馬琴にとっては孫)も二十代で死んだため、滝沢家は孫娘のおさちが継いだ。ところが、おさちは婿を迎えたが離縁した。
 二度目の婿を迎えたが、またもや離縁。三度目の結婚をした。

 馬琴夫婦とその子供たちを例にしたが、当時、離婚や再婚がごく当たり前だったことがわかろう。
 なお、馬琴がお百と結婚したのが寛政五年(1793)、孫娘のおさちが死去したのが明治二十四年(1891)だから、この間は95年である。