日清戦争を終わらせた2大決戦「鴨緑江・旅順口の戦い」と「威海衛の戦い」の真相に、連載形式で迫る。  
撃沈された清国海軍の「威遠」

黄海海戦の勝利で自信を強め
威海衛での北洋艦隊の壊滅を目指す

前回はこちら:威海衛をめざす日本軍、連なる東南部砲台を占領!

 2月1日、第2軍は湾の北側にある諸砲台の攻略を開始した。ここでも北洋艦隊からの艦砲射撃に脅かされたため、威海衛の市街地を避け内陸部を進軍した。いざ湾の北側に着くと、砲台から清国兵の姿が消えていた。これまでの城塞都市と同じように、日本軍が到着する前に闇に乗じて退却してしまった。
 だが、1月30日、歩兵第11旅団長の大寺安純少将は占領した百尺崖砲台を見回っていたとき、敵艦の砲弾を受けて戦死した。大寺は日清戦争を通し、将官としてはただ1人の戦死者となった。

 砲台が陥落し、残るは北洋艦隊の撃滅だけとなった。敵艦隊は湾内に留まったきりである。連合艦隊の真価が問われるときがやってきた。
 連合艦隊は黄海海戦での勝利で自信を強め、威海衛での北洋艦隊壊滅をめざしていた。北洋艦隊は巡洋艦10隻、水雷艇4隻など18隻を擁していたが、黄海海戦で3隻が沈没、2隻が座礁し、残った艦艇も損傷がひどくまともに戦える能力はなかった。が、威海衛で修理を進め、日本軍が高地を越えて海岸線に現れると、湾内から艦砲射撃を浴びせた。

 連合艦隊は1月30日、第2軍の百尺崖方面の攻撃を支援するため栄城湾を出撃し、高地にある砲台を砲撃した。これが威海衛攻略作戦の始動となった。
 同日、司令長官の伊東祐亨中将は、水雷艇3隊に湾内の主力艦を破壊するように命じた。というのも北洋艦隊は港口に防材をしかけ、巡洋艦など主力艦艇の侵入を阻んでいたのである。

◎次回は5月24日(水)に配信予定です。