イラスト/フォトライブラリー
『江戸の性事情』(ベスト新書)が好評を博す、永井義男氏による寄稿。

 連載第60回の「ゲス不倫した武士の妻の末路とは」で、武士の妻は必ずしも貞淑ではなかったことを書いた。武士の妻は命より貞節を重んじたなど、現代人の幻想に過ぎない。
 娘もまた同様だったようである。当時の武士が書いた日記には、武士の娘の実態が記されている。

『桑名日記』は、桑名(三重県桑名市)藩の
米蔵の出納役だった渡部平太夫の克明な日記である。
 その天保十三年(1842)十一月六日の項に、桑名藩士の行状が書き留められている。記述内容は筆者が現代語訳した。


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 竹内は夫婦喧嘩が絶えなかったが、いよいよ離縁がきまったようだ。そのほかにも夫婦の不和は多いが、たいていは妻が夫を嫌うのが原因になっていることが多い。
 丸山庄左衛門の妹は下田作左衛門の息子の金之丞と結婚したが、婚礼から五日目に実家に逃げて帰り、けっきょく離縁となった。
 伊藤善内の娘は田中金吾の弟を婿養子にして結婚したが、妻が夫を嫌悪し、けっきょく離縁となった。
 磯野鉄八は関根五郎八の娘を妻にめとったが、祝言がすんだあとになって、妻が夫を嫌悪して離縁となった。噂では、女のほうに男がいて、忘れられなかったようだ。

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『石城日記』は、忍(埼玉県行田市)藩の下級藩士だった尾崎石城の日記である。ここにも、忍藩士の行状が記されている。


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 文久元年(1861)九月七日、石城の友人である中島春三郎の密通に関して記した。
 加藤雄助の娘が、妻のある中島春三郎と密通した。中島は妻を離縁して、この娘と一緒になりたいと思うようになり、父親である加藤雄助に相談した。
 加藤は、「とんでもない。そんなふしだらは認めるわけにはいかぬ」と、ふたりの仲を裂くため、娘を遠方の親戚にあずけた。
 こうして、いったんは断乎とした処置をしたものの、加藤も娘が可愛い。中島と娘の嘆願を聞くうち、娘の願いをかなえてやりたいと思うようになった。
 中島と加藤で話し合い、合意に至る。ついに中島は妻を離縁し、一カ月もたたないうちに加藤の娘を後妻に迎えた。

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 文久二年三月二十四日、友人の松村俊平に関して記している。
 松村の妻が大蔵寺という寺の奉公人と密通し、世間に知れ渡った。このため、松村は妻を離縁し、自分も藩から処罰された。


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 同年四月、友人の岡村荘七郎の縁談について記した。
 岡村が、伊藤庄内の娘を妻にめとる話が進んでいるという。伊藤の娘は十四歳だが、すでに去年くらいから多くの男とつきあい、淫乱娘として有名だった。
 石城は岡村に、「伊藤の娘はよせ」と、言葉を尽くして結婚を思いとどまるようにいさめた。しかし、岡村は頑として聞き入れない。女の魅力に参っているのだろうか。石城もついに説得をあきらめた。

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 例に示したのは桑名藩と忍藩だが、ほかの諸藩の藩士も同じような行状だったのは想像に難くない。
 もちろん、諸藩の藩士の娘がみな淫らだったわけではないが、「武士の妻や娘はみな貞節を重んじた」は幻想に過ぎない。武士の娘にも性的に奔放な女は少なくなかった。