全国で反平氏勢力が膨張し、源氏を中心に“平氏討伐”が掲げられるさなか、平清盛は病没してしまう。弱体化した平氏は都を落ち、西へ逃れるも、頼朝・義経ら源氏は、一ノ谷、屋島へと、次第に追いつめて行く……。壇ノ浦で平家が滅びるまでの一部始終に迫る連載。
壇ノ浦の平知盛像(手前)と源義経像(奥)

海上と陸との矢合戦 「屋島合戦」

 義経・範頼軍の関係については、次のように説明されることが多い。すなわち、頼朝は、当初、義経を平氏追討使に予定していたが、義経が頼朝の推挙なく検非違使左衛門少尉に任官したことに激怒し、追討使を義経から範頼に交代させたものの、範頼軍は苦戦続きで、なかなか成果をあげ得ず、再び義経の起用となったというものである。
 これに対して、近年、頼朝は義経に対して自身の代官として畿内近国における軍政指揮官としての役割を期待しており——実際、この時期の義経は、伊賀・伊勢地方で起こった平氏勢力による反乱の対応にあたっている——、範頼の平氏追討使任命と義経の自由任官問題は無関係だとする見方が有力である。

 この説によれば、義経出陣は、頼朝の命令ではなく、範頼軍の苦戦による平氏軍の勢力拡大を危惧した義経が、その独自の判断で、後白河院の許可を得て行った単独行動ということになる。先の範頼からの書状に対する返書の中で、頼朝が「屋島の安徳天皇に何事もないように」とか、「急がず、冷静な戦いをせよ」といった指示を繰り返していることなどによって、平氏との戦いにおける頼朝の構想が、あくまで長期戦=平氏降伏による三種の神器および安徳天皇の無事帰京にあったという指摘とあわせ考える時、この新しい見方の妥当性はより高まってくるといえよう。

 屋島急襲にさいし、まず高松の在家に火を放つという義経の作戦はあたった。海上からの攻撃ばかりに備えていた平氏は、高松方面にあがる火の手を見て、背後から源氏の大軍が押し寄せてきたと思い、混乱状態に陥ったのである。仮の内裏を放棄して、その惣門前の渚に並べてあった船に乗り込み海上に逃れた平氏勢は、姿を現した義経軍が思いのほかに少数なのを見て口惜しがったという。船と陸とでの矢合戦が始まったが、結局、一ノ谷の戦いのような激しい戦闘はないまま、平氏勢は屋島を放棄し、さらに西へと向かうことになった。この屋島の戦いでは、大きな戦闘がなかったにもかかわらず、『平家物語』が数々のエピソードを伝えていることも注目されている。

 たとえば、これはまだ出帆前の話であるが、渡辺の津において、船尾にも舳先(へさき)にも櫓をつけ、船をどちらにも回しやすくすることを主張する梶原景時と、これを戦う前からの逃げ仕度として斥(しりぞ)けた義経との間で起こった「逆櫓の争い」もその一つである。のち義経は、この景時の讒言(ざんげん)によって頼朝と不和になったともいう。
 そのほか矢合戦のさい、義経の矢楯となって強弓の平教経に射落とされた奥州の佐藤嗣信が死に臨み、主君の身替りとして死ぬことは「今生の面目」と述べたという話、あるいは合戦の開始時に、源氏方の伊勢三郎義盛と平氏方の越中次郎兵衛盛嗣との間で行われた「詞戦い」という悪口の応酬の話などもある。
 しかし、なかでもよく知られているのは、平氏方の小舟に乗る美女が立てた扇の的を射た下野国の住人那須与一宗高の話であろう。義経から射手を命じられた与一の、「もし射損じたならば、味方の恥ゆえ、生きて故郷へは帰れない」という切実な心情は、後々まで人々に感銘を与えることになる。戦国時代、同じ下野国の佐野城主で天徳寺という武将が、この話を聞きながら、切羽詰まった立場に置かれた弓矢とる武士の道のあわれさに感じ入って涙を流し、「勇壮な話なのになぜ涙を!」と家臣たちを不審がらせた話も伝わっている。

◎次回は、5月21日(日)に更新予定です。