イラスト/フォトライブラリー
『江戸の性事情』(ベスト新書)が好評を博す、永井義男氏による寄稿。

 初代が裸一貫から営々として築きあげた身代を二代目、あるいは三代目があっけなく蕩尽してしまう例は少なくない。
 いっぽうで、何代にもわたって堅実な商売を続けている例もあるが、そんな商家では婿(むこ)が多い。息子に継がせても必ずしも商売に向いているとはかぎらない。

 ところが、奉公人のなかから信用できる男をえらび、娘の婿に迎えて商売を継がせれば、うまくいくのである。大きな商家で婿が多かったのは、商売を継続していくにはそのほうがよいという知恵が働いていたからである。
 しかし、悲劇もあった。そんな悲劇が『わすれのこり』(安政元年)に出ている。

 浅草黒船町の道具屋の手代の与兵衛は、幼いころから丁稚小僧として住み込みで働いていた。性格は真面目で、働きぶりも実直だった。主人夫婦は与兵衛に言った。
「わしらには男の子がいないため、いずれ娘のお亀に婿をもらい、店を継がせなければならない。かといって、気心もわからぬ男を婿にするのもためらいがある。その点、おまえは信頼できる。いずれお亀の婿にして、この店も譲る。そのつもりで勤めてくれよ」
「ありがたいことでございます」
 与兵衛は感激した。商家の奉公人にとって、主人になる道が開けたのである。これ以上の出世はない。その後は、以前にもまして篤実に働くようになった。

 ところが、ある大店から、「相応の持参金をつけるので、次男坊を婿にもらってくれないか」という申し出があるにおよび、主人は心変わりをした。
 主人は与兵衛を居間に呼び寄せた。
「わしはおまえの誠実を見込んで、お亀の婿にして店を譲り、あとはのんびり老後の楽しみをするつもりだったが、名主から婿を勧められた。ほかからの縁談なら即座に断わるところだが、親類の者が言うには、『名主の申し出を断わっては今後の商売にもさしつかえるであろう』とのこと。話を受けざるを得ない。だが、気の毒なのがおまえのこと。些少だが、これを元手に商売を始めてくれ。おまえのことだから、きっとうまくいく」
 そう言って因果を含めると、主人は十両の金を渡して、与兵衛を親元に帰してしまった。

 いったん親元に帰った与兵衛は鬱々とした日々を過ごしていた。いよいよお亀に婿が来る日になると、与兵衛はどうしても我慢できず、家を出るとそっと近所までやってきた。すでに夜がふけていたが、町内は多数の軒提灯を照らし、真昼のように明るい。家のなかは大勢の客でにぎわっている様子である。
 それとなくうかがっていると、「三国一の婿、とりすました」という祝いの声があがった。その声を耳にした途端、与兵衛はカーッとなった。

 逆上した与兵衛がずかずかと家の中にはいりこんだが、大勢の客でてんやわんやの状態であり、誰も気づかない。勝手知ったる与兵衛は店の売り物のなかから脇差を取り出すと、婚礼の座敷に駆け込んだ。
「思い知れ」そう叫ぶなり、新婦のお亀に斬りつけた。お亀は即死だった。
 もう、大騒ぎである。逃げ惑う人々に斬りつけ、主人にも傷を負わせた。与兵衛が足をすべらせて転んだところ、人々が折り重なるようにしてようやく取り押さえた。

 町奉行所に召し捕られた与兵衛は、「重き刑に処せられし」とある。当時、たとえどんな理由があろうと、主人やその家族を殺傷すると極刑に処せられた。与兵衛の場合、主人を傷つけ、主人の娘を殺したのである。重き刑は、磔(はりつけ)か獄門であろう。
 殺人犯には違いないが、与兵衛が自暴自棄になったのが理解できないわけではない。