織田信長、真田幸村、井伊直弼、坂本龍馬―――。日本史上、暗殺や討死によって最期を遂げた有名な人物は数多く存在する。では、その実行犯となったのは、どういった人物だったのだろうか!? これは、一般的にはマイナーな『日本史の実行犯』たちの物語! 
▲「乙巳の変」の現場となった明日香板蓋宮の跡(奈良県明日香村)

「中大兄皇子(なかの・おおえの・みこ)」と「中臣鎌足(なかとみの・かまたり)」によって推し進められたと言われる「大化の改新」。
 天皇中心の国家作りを目指したこの改革は「乙巳(いっし)の変」と呼ばれるクーデターによってもたらされました。
 この政変の折、時の権力者である「蘇我入鹿(そがの・いるか)」を斬り伏せた人物こそ「佐伯子麻呂(さえきの・こまろ)」という一人の武人だったのです。

「古麻呂」とも記される佐伯子麻呂の生年や出身地などについては、詳しく分かっていません。河内国河内郡(現・大阪府八尾市、東大阪市)の周辺を拠点とし、朝廷の軍事を担っていた豪族だと言われています。

 当時のことを知るために必須の史料である『日本書紀』には、子麻呂は「皇極(こうぎょく)天皇」の御世に初めて登場します。
 皇極天皇は、夫である「舒明(じょめい)天皇」の後を継いだ女帝であり、中継ぎの天皇という一面があったため、政権内では次に誰が皇位に就くのかという権力争いが盛んになっていたところでした。

 そういった時勢の中、台頭したのが蘇我入鹿でした。舒明天皇の崩御の翌年(642年)に皇極天皇が即位すると、父(蘇我蝦夷:そがの・えみし)から蘇我氏の族長を譲られ、国政を執り始めました。
 その入鹿が次期天皇に就けようとしたのが「古人大兄皇子(ふるひとの・おおえの・みこ)」でした。古人大兄は母が蘇我氏の出身で、入鹿の従兄弟に当たります。この人物を皇位に就けて政権を思いのままに操ろうと画策したといいます。
 皇極2年(643年)には、皇位継承者の1人であった「山背大兄王(やましろ・おおえの・おう=聖徳太子の息子)」を襲撃して滅ぼしています。

 ここで、国家を掠め取ろうとする入鹿の企てに異を唱えたのが、中大兄皇子と中臣鎌足でした。
『日本書記』には、有名な2人の出会いの場面が記されています。
 中大兄がある時、法興寺の木の下で蹴鞠をしていると、沓が脱げてしまいました。それを拾い、跪いて両手で丁寧に渡したのが、中臣鎌足だったそうです。2人はそれをきっかけに親しくなり、入鹿を討つための作戦を練ったといいます。

 中大兄と鎌足は、入鹿と敵対する蘇我氏の「蘇我倉山田石川麻呂(そがの・くらやまだの・いしかわまろ)」を説き伏せて味方につけ、さらに鎌足は入鹿を討つための2人の刺客を中大兄に提案しました。
 その2人というのが“武勇強断”“膂力扛鼎”の武人として知られた「佐伯子麻呂」と「葛城稚犬養網田(かずらきの・わかいぬかいの・あみた)」でした。

【対立関係】
<中大兄皇子・中臣鎌足・蘇我倉山田石川麻呂・佐伯子麻呂>
   ↑↓
<古人大兄皇子・蘇我入鹿・蘇我蝦夷>

 そして、時は皇極4年(645年)6月12日を迎えます―――。