全国で反平氏勢力が膨張し、源氏を中心に“平氏討伐”が掲げられるさなか、平清盛は病没してしまう。弱体化した平氏は都を落ち、西へ逃れるも、頼朝・義経ら源氏は、一ノ谷、屋島へと、次第に追いつめて行く……。壇ノ浦で平家が滅びるまでの一部始終に迫る連載。
壇ノ浦の平知盛像(手前)と源義経像(奥)

源氏は、東流する潮が西流に転じ、急になるのを利用したのか?

『平家物語』や『吾妻鏡』によると、数にまさる源氏勢に対し、平氏軍は軍船を筑前国の山鹿勢、肥前国の松浦党および平氏勢本隊の三手に分けて漕ぎ進んで戦いを挑んだが、しだいに劣勢になっていったという。
 その理由としてよくあげられるのが、合戦途中における潮流の変化説である。『平家物語』にしても戦いの前半の様子を、「源氏の船は逆巻いて流れ落ちるような速い潮流に逆らって進もうとして押し流されるのに対し、平氏の船は潮流に乗って進み出た」と記しているが、これは潮流が変わると、今度は源氏方が優勢になることを意味しているといえよう。

 潮流説のうち、もっとも有力視されているのは、先の『玉葉』の合戦時刻にもとづき、合戦開始の正午頃は内海に向かって東流していた潮が、午後3時頃から外洋に向かって西流に転じたのち、夕方にかけてしだいに急になるのを利用し、源氏方が勝利を収めたというものである。
 ただし、こうした潮流が戦闘に与えた影響を重視する説に対しては、当日の潮流はゆるやかで、しかも実際に合戦場となったのは、ほとんど潮流のない海域であったとか、どれほど潮流があっても、同じ潮流上に乗っている源平両船の対水速度には変わりがないなどといった否定的な見方も多い。

 平氏の敗因としては、そのほか、本来、身分の高い人が乗る大型の唐船に雑兵を乗せ、これを源氏方が攻めるうちに包囲する、という平氏方の作戦が、阿波民部重能の裏切り(『平家物語』は嫡子教能が人質にとられたことによると伝える)で敵にもれたため、あるいは非戦闘員である平氏方の水夫や梶取が射殺され、操船不能になったため、などといったものもあげられているが、これらも含めて、さまざまな要因がからみあっての結果と考えられる。

 勝敗は決した。安徳天皇の御座船の中にあって、すでに覚悟を決めていた清盛の妻の二位尼は、わずか8歳の幼帝を抱き、「浪の下にも都がございます」と語りかけ、海に入った。壇ノ浦の戦いの悲劇は、こうした女性・子供、さらには先の水夫・梶取といった非戦闘員を死に至らしめたことにあるといえよう。

◎次回は、6月4日(日)に更新予定です。