「Dデー」――ノルマンディー上陸作戦決行の日であった1944年6月6日、連合軍優勢の中、ロンメル元帥率いるドイツ軍戦車部隊(装甲師団)の反撃があった。Dデーにいたるまでのロンメル元帥を追う。
イギリス空軍のホーカー・タイフーン(写真)はアメリカのリパブリックP-47サンダーボルトと並ぶ典型的なヤーボだ。20mm機関砲4門の掃射威力とロケット弾攻撃でノルマンディーの空を暴れ回った。

装甲師団を巡り食い違うドイツ軍上層部の意見

前回はこちら:ドイツ軍の勇将・ロンメルが予言した「いちばん長い日」とは?

「海から上がったばかりで態勢が整わぬうちに叩かねばならん!」
 ロンメルは言った。先の戦場だった北アフリカでの厳しい戦訓で、彼は連合軍の物量と戦術航空攻撃の恐ろしさをよく理解していた。そして、海岸堡が築かれてその防御が堅固なものになる前、つまり上陸直後の不安定な状態の連合軍部隊を「海に追い落と」さなければそれが不可能になると考えており、時間的猶予は上陸後24時間以内と見ていた。

 ロンメルは、反撃の主軸となる装甲師団を沿岸部に前進配置しようとした。北アフリカで、白昼行軍中の部隊がヤーボ(戦闘爆撃機)に襲われて大損害を蒙(こうむ)った経験を何度もしている彼は、もし装甲師団を内陸部に配置した場合、このヤーボを避けるために白昼行軍よりも速度がはるかに遅くなる夜間行軍で前線に向かわなければならず、反撃が手遅れになると判断したのだ。
「数少ない装甲師団は貴重だ。東部戦線と同様にもっと合理的に運用せねばならん!」
 ところが、西方装甲集団司令官レオ・ガイヤー・フォン・シュヴェッペンブルク大将はロンメル案に猛反対した。彼もまた自身が経験した東部戦線での戦訓に鑑み、装甲師団を沿岸部に前進配置した場合、敵が思惑通りの地点に上陸すればよいが、まったく別の場所に上陸すると、かなりの距離を移動してからの反撃になるため、やはり機を失してしまいかねないと考えていたのだ。

 対案として、シュヴェッペンブルクは東部戦線における「火消し部隊」の戦術――戦線から一定の距離を下がった後方に機動予備部隊を控置し、最前線に炎上地点が生じたら、あたかも消防車のごとくその地点に急派して「消火」させる戦術――を、対上陸作戦戦術として応用することを主張した。ルントシュテットも、一見では正論の彼の意見に賛同したが、ロンメルのように連合軍の戦術航空攻撃と直接渡り合った経験に乏しい二人には、敵の航空機の数の多さと巧みな運用術が実感できなかったのである。
「余の命令なしに装甲師団を動かしてはならん!」
 この論争に決着をつけたのはヒトラーだった。彼は、両者の主張の中間的な位置に各装甲師団を配置し、自身の命令なしでの出動や移動を禁じたのだ。だがこの措置は、のちに戦局に重大な影響を及ぼすことになる。

 予想される上陸地点については、ルントシュテットもロンメルもともにベルギー国境からソンム川河口に至る範囲で、海峡の幅がいちばん狭いパ・ド・カレー一帯がもっとも危険ではないかと見ていた。
 一方、ヒトラーはアンカラのイギリス大使館に勤務する“キケロ”の秘匿名を持つ諜報員からの報告により、ノルマンディーの可能性が高いことを知らされていた。また、ドイツ第84軍団長エーリヒ・マルクス大将も、巨大な連合軍の一斉上陸とその後の兵站を考えた場合、自らが担任するノルマンディー一帯がかなり危ないと感じていた。
 だがいずれにしろ、完成まで程遠い「大西洋の壁」などではなく、装甲師団がドイツ軍の防衛の要であることは間違いなかった。

◎次回は6月21日(水)に配信予定です。