イラスト/フォトライブラリー
『江戸の性事情』(ベスト新書)が好評を博す、永井義男氏による寄稿。

 寛文六年(1666)のことである。弓町の裏長屋に、作右衛門というならず者が住んでいた。酒癖が悪く、大酒を呑んではあちこちで暴れまわるという、手のつけられない乱暴者だった。
 たまたま、長屋で婚礼があった。当時の庶民の婚礼は、花嫁が花婿の自宅に来て、そこで三々九度の盃事をしたあと、初夜となる。

 長屋で嫁入りがあったと知るや、酒に酔った作右衛門が押しかけ、「今晩、嫁さんを借りたい」と、嫁入りしてきた女の手を取り、強引に引っ立てようとした。
 花婿が驚き、「なんという狼藉」と、押しとどめようとする。それを、作右衛門が殴り倒す。
 作右衛門の母親や長屋の者たちが大勢集まり、無法な行為をなだめ、思いとどまらせようとするが、とても抑えきれない。
「この作右衛門がいったん言い出したからは、反故にしたことはねえんだ。
女房をひと晩借りるくらい、なんだ」と怒鳴り散らし、誰彼かまわず殴りつけ、蹴り倒す。長屋は大騒動となった。

 そこに、同じ長屋に住む五兵衛という男が外出先から帰ってきた。五兵衛は十八歳ながら男伊達で知られていた。
 騒ぎを見て、五兵衛が取り押さえようとした。作右衛門はますますいきり立ち、「てめえが相手なら、骨があっておもしろい」と、包丁を持ち出してくるや、五兵衛のみけんに切りつけた。
 五兵衛は傷を受けながらも、ひるまずに天秤棒を手にして立ち合い、殴りつける。たまたま打ち所が悪かったのか、作右衛門は、「うーん」と、ひと声うめいたかと思うや、そのまま倒れ伏した。

 みなはびっくりして、作右衛門を介抱したが、すでに絶命していた。作右衛門が死んだのを知り、五兵衛は集まっていた長屋の住人に向かい、「わっしが作右衛門を打ち殺したからには、逃げも隠れもいたしません。お奉行所に参りますので、同行してください」と、いさぎよかった。

 作右衛門の母親が涙ながらに言った。
「かねがね、乱暴ものの倅めのため、あたしもろくな死に方はできまいと存じておりました。勘当しようと思いながらも、たったひとりの倅ゆえ、不憫さのあまりずるずるときてしまい、とうとうこんなことになってしまいました。みなさまにもご迷惑をかけ、申し訳ございません。どうか、ここはあたしにお任せください」
 そして、奉行所に作右衛門の変死を届け出た。

 検使に来た役人に向かい、母親は、「あたしの倅めは無法なおこないが多く、折檻をしようとしたところ、手向かってきましたので、天秤棒で打ち据え、このような仕儀となりました」と、申し述べた。
 役人もいぶかしい点があるとは思ったが、親の陳述であることから、とくに詮索はせず、その説明に納得して帰った。親が子供を折檻したあげくの死亡であることから、なんの咎めもなかった。

 

 その後、母親は五兵衛はじめ長屋の住人に、「このような子供を持ったのも、前世の因果と思えば、なんの心残りもございません」と挨拶し、髪を切って尼の姿になり、田舎の知人のもとに隠棲した。
 以来、五兵衛は作右衛門の母親を自分の母親同様にうやまい、折に触れて金を送ったという。

『関東潔競伝』に拠ったが、作右衛門のような箸にも棒にもかからない粗暴な男は、いつの世にもいる。ただし、現代であれば110番すればよい。パトカーが駆けつけ、警察官が取り押さえてくれる。
 ところが、江戸時代には、すぐに駆けつけてくれる警察官などいなかった。けっきょく隣近所の人間が集まって、暴れる男をなだめすかすしかなかったのだ。五兵衛のような男伊達が重宝される背景でもあった。

 また、親が子供を折檻し、あやまって殺してしまったと述べれば、その罪は不問に付されていることも興味深い。
 親が同意すれば、娘を遊女に売ることも可能だった。同様に、親が子供を折檻するのは当然と考えられていた。
 現代では前者は人身売買、後者は子供の虐待となる。