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『江戸の性事情』(ベスト新書)が好評を博す、永井義男氏による寄稿。

 わが国の「悪女伝」に類する本や雑誌の特集には、必ずといってよいほど「高橋お伝」がはいっている。常連といおうか、定番といおうか。
 男を次々とたぶらかして殺害した稀代の悪女、毒婦で、明治初期に処刑された。

 高橋お伝の陰部がホルマリン漬けになって保存されており、現物は東京大学医学部にあるが部外秘で、公開はされていない。
 特別の許可を得て観察した人によると、その陰部は特殊な形状をしていて、多くの男をとりこにしたのもむべなるかなと感じたとか――こんな、まことしやかな説もある。

 はたして、本当なのかどうか。
 そもそも考えてみると、もし本当に保存されているとしても、ホルマリンに漬かって100年以上も経過している。ふやけてしまい、形状が変化しているのは当然ではあるまいか。

 さて、筆者は高橋お伝に関するいくつかの資料を読んだが、どうも判然としない。というより、お伝の伝記と称するものはあまりにたくさんあり、フィクションとノンフィクションが入りまじり、どこからどこまでが事実で、どこからどこまでが作者の創作なのか、よくわからないのだ。
 後世の人は先人の著作をベースにするが、そのベース自体が怪しいのである。しかも、後世の人がさらに創作を付け加える。こうなると、もう一種の伝説化といおうか、伝説の拡大再生産といおうか。

 さて、明治九年九月十二日付けの朝野新聞に、高橋お伝の逮捕の経緯が報じられている。この記事にしてもすべて事実かどうかは断言できないのだが、少なくとも明治九年という「現時点」で書かれている。その意味では、もっとも事実に近いであろう。
 以下、その内容を要約して紹介しよう。

 

 高橋お伝は上州(群馬県)沼田横木村に生まれ、同村の波之助を婿養子に迎えた。生まれたのも育ったのも江戸時代である。その意味では、お伝は江戸時代の女といえよう。
 明治二年、お伝は夫波之助とともに村を出て、東京を経て横浜に向かったが、波之助が病気で死去。お伝も病の床に伏したが、同郷の人の世話で明治四年十月、東京の神田仲町の秋元幸吉に引き取られた。
 その後、プイと家出をして、幸吉の家で知り合った、麹町十二丁目で砂糖屋をいとなむ小川市太郎のもとに押しかけ、夫婦同然の暮らしをしていた。このとき、お伝は同居している市太郎には内緒で、房州(千葉県)館山町の船頭田中甚三郎から金十円を借りた。
 期限がすぎ、甚三郎にたびたび返済を催促されたが、お伝はそのたびに言い訳をして引き延ばす。甚三郎もついにたまりかね、「すぐに返済しなければ、市太郎さんに掛け合う」と宣告した。明治九年八月二十日のことである。

 困ったお伝は翌日、知り合いの檜物町の古着屋後藤藤吉を訪ね、「船頭の田中甚三郎さんの荷物を抵当に二百円貸してほしい」と申し入れた。なにしろ大金なので、藤吉もその場では承諾しなかった。
 二十六日の夕方になって、藤吉のほうからお伝を訪ねてきた。市太郎に知れるとまずいので、お伝は藤吉を蕎麦屋に連れて行った。
 藤吉がさそった。
「今夜はどこかに一泊しようではないか」
 この言葉で、お伝は金を引き出せると踏んだ。もしものときを考え、お伝はいったん家に戻ると、カミソリをひそかにふところに忍ばせた。
 お伝と藤吉は人力車を雇って蔵前片町に向かい、宿屋の大谷屋に泊まった。このとき、ふたりは宿帳に、「武州大里郡熊谷新宿内山仙之助、同妻マツ」と記した。

 宿屋でお伝はあらためて借金を申し入れたが、藤吉はうんとは言わない。計算が狂ったお伝は翌二十七日、熟睡している藤吉の喉笛をカミソリでかき切り、ほとばしる血潮を布団で押し隠した。
 その日の昼過ぎ、お伝は吉蔵が所持していた金十一円と書付類を風呂敷に包み、「ちょっと用事があるので出かけてきます。亭主は具合が悪くて寝ております。起こさないでください」と言い残すや、宿屋を出て行った。
 翌二十八日になってもお伝は戻ってこないし、寝ている亭主はまだ起きない。さすがに不審を覚えた女中が寝床を調べに行き、男が死んでいるのを見つけた。男の死体のそばには、「この者に五年前、姉を殺され、その後はわたくしも非道の扱いを受けておりました。ようやく姉のかたきを討ちました。 マツ」という意味の書置きが残されていた。

 いっぽう、後藤家では二十六日以来、藤吉の行方が知れないので方々をさがしていたが、蔵前片町の宿屋で変死人が出たという噂を聞きつけて訪ね、死人が後藤藤吉であるのを確認した。
 男の身元がわかれば、あとの探索はさほどむずかしくない。二十九日、お伝はあっさり召し捕られた。

 当時の新聞だけに、性的な記述はいっさいない。しかし、いろんな男の世話になっていることから考え、お伝がかなり性的に奔放だったのがうかがえる。体を許すことで男に取り入ったのであろう。
 ただし、殺した男はたったひとりである。殺害方法もけっして冷血な計算づくではないし、さほど陰惨でもない。お伝が稀代の悪女、毒婦とはどうしても思えない。この程度の犯罪者は世の中にはざらにいるのではなかろうか。

 明治十二年(1879)、高橋お伝は市ヶ谷刑務所内の死罪場で、山田浅右衛門(八代)によって首を斬られた。このとき浅右衛門は斬りそこない、醜態を演じたという。
『明治百話』によると、お伝の前に首を斬られる男がガタガタふるえていた。これを見て、お伝が、「おまえさんも臆病だね、男のくせにサ、わたしをごらんよ、女じやァないか」と励ましたという。
 なお、明治十三年に制定された刑法で、わが国の死刑は斬首から絞首刑に変わった。高橋お伝は、わが国最後の斬首刑になったといえる。こんなことも手伝って、お伝は稀代の悪女、毒婦に仕立てられていったのではなかろうか。