イラスト/フォトライブラリー
『江戸の性事情』(ベスト新書)が好評を博す、永井義男氏による寄稿。

 享和二年(1802)の五月から八月にかけて、三十六歳の滝沢馬琴は京都、大坂を旅行した。この旅行の見聞をまとめたのが『羈旅漫録』である。
 同書に、大坂の名妓「首信(くびのぶ)」のことが書かれている。大坂ではあるが、馬琴が実際に面会していることでもあり、ここに紹介したい。

――大坂の島の内にお信という芸子(芸者)がいたが、容姿端麗で、とくに首筋が美しいことから、いつしか人は「首信」と呼ぶようになった。
 お信は享和二年、すでに四十三歳になっていたが、二十五、六歳にしか見えなかった。しかも、寝起きの素顔のほうが、化粧をした顔よりも美しかったという。父親は御所桜長兵衛という相撲取りで、のちに年寄になった。

 お信は安永の初め、京都の祇園に芸子として出た。たちまち人気が高まり、富裕な男たちが競うように金を使った。なかでも、豪商三井の当主はお信に夢中になり、数万両を使った。一説には、十万両を浪費したともいう。
 さすがに当主を放置しておくわけにはいかず、三井の番頭や親類一同が協議して、強制的に隠居させ、伊勢松坂の店の中に幽閉した。これを聞き、お信が言った。
「隆盛のときは安楽を共にしておきながら、窮した途端に離別するのは義にそむきます」

 お信はみずから松坂におもむくと、かつての当主に十三年にわたって仕えた。その間、国学者本居宣長に師事して『源氏物語』などを学び、さらに機織りの技も覚えた。
 この状況を見て、三井の番頭や親類一同がふたたび協議し、代表がお信にひそかに面会した。
「そなたの十三年間の苦労はとうていほかの女の及ぶところではありません。しかし、そなたがここにいる限り、ご隠居の目も醒めず、幽閉が解けることもありますまい。どうか、ここは京に戻ってください」
「わかりました」
 お信も自分が身を引いた方が男のためになると思い、承知した。三井は高価な餞別や旅費を渡して、お信を京都に送った。

 京都に戻ったお信は餞別の品々を売り払って七十両あまりを手にすると、髪飾りや衣服をととのえ、ふたたび祇園に芸子に出た。すると、以前にもまさる全盛となった。
 そうするうち、歌舞伎役者の嵐雛助(後の嵐小六)と親密な仲となり、世間の評判となった。当時、歌舞伎役者の人気は高かったが、社会的な身分は低かった。

 相撲取り五、六人が御所桜の家に押しかけてきた。
「聞くところによると、親方の娘は役者風情の妾になったとか。相撲取りの名折れです。このままなら、師弟関係は終わりにします」
 御所桜も困り、娘に嵐雛助と別れるようせまった。お信が雛助に相談すると、「相撲取りと役者と貴賤に高下はない。人に見物させて金をもらう点では同じではないか。絶対に別れない」と、雛助は強硬だった。

 お信は、「父がなまじ相撲とかかわりを持っているから、こんなことになる」と、御所桜を年寄から引退させ、京都にしかるべき住居を用意してやり、安楽な老後を送らせた。こうして、相撲取り連中からの嫌がらせはやんだ。
 しばらくして、雛助は死んだが、お信は相変わらず芸子を続けた。

 その後、役者の文七と相思相愛の仲となり、ついに妻になった。
 ところが、文七が病に倒れ、いっこうに快癒する気配はない。お信は夫のために願をかけ、自ら髪を切ると、讃岐の金毘羅へ参詣した。しかし、お信が参詣から戻ると、すでに夫は死去していた。
 以後、お信はふたたび夫を持つことはなく、大坂の島の内で芸子に出たが、いまにいたるまで人気は高い。和歌を詠み、俳諧の連歌もたしなむという――。

 大坂に滞在中、滝沢馬琴は道頓堀の料亭でお信と対面した。すでに席に着いていた芸子や幇間連中は、江戸の作者である馬琴の名をまったく知らない様子だったが、おくれて座敷にやって来たお信は、「おや、馬琴先生ではございませんか」と、ちゃんとその名を知っていた。
 馬琴と同席していた客がお信に俳句を求めた。何度か辞退したあと、しいて求められるに及んで、お信はさらさらとこうしたためた。

  わらはれて夜をひた啼やきりぎりす

 その手跡なかなか見事だった。

 有名な遊女や芸者というと、江戸の吉原や深川などにばかり脚光をあてる傾向があるが、京都や大坂にも有名な女はいた。気難しい馬琴が感服したくらいだから、お信はよほどすぐれた女だったのであろう。