岐阜在中の歴史作家・鈴木輝一郎がゆるりとめぐる、戦国武将の史跡。
つい見落としてしまいがちな渋い史跡の数々を自らの足で訪ね、
一つ一つねぶるように味わい倒すルポルタージュ・ブログシリーズ!

 実はこのコラム、けっこう写真を撮り溜めています。
 なにせ愛知・岐阜・三重の東海三県には、戦国時代の古戦場やら城址やらがやたらある。

 でも、お蔵入りしてそのままのものもけっこうある。「絵にならないから」という理由で……。
 今回はその典型。長久手古戦場。

 戦国ファンにはお馴染みの、小牧・長久手の戦いのひとつです。

 小牧・長久手の戦いは織豊期のわりと後期のほう、豊臣秀吉対徳川家康の決戦です。
 土木建築戦とゲリラ戦の複合合戦ですね。表側では犬山・小牧で徳川家康と豊臣秀吉がにらみあう間、豊臣軍が裏道を使って徳川軍が留守にしている、三河岡崎城をゲリラ戦で襲撃する、って戦いです。

 このときの遊撃部隊を指揮していたのが豊臣秀次(当時は三好秀次)。これに池田恒興や森武蔵守長可(ながよし)らが従った。だけど遊撃情報は徳川方に漏れていて、豊臣遊撃隊は長久手近辺で徳川の迎撃を受けて壊滅。

 こうやって書くとなかなかスリリングな戦いなのですが、なにせ平地戦なので残っているのは石碑だけ……。
 例によってカーナビに『長久手古戦場公園』と入力すると、たどりつけます。

 それから池田恒興の戦死の石碑。このとき池田恒興は出家していたので「池田勝入」になっています。

 いまはすっかり森蘭丸のほうが有名ですが、江戸時代には蘭丸よりも、兄の森武蔵守長可のほうが「鬼武蔵」として有名だったようです。こちらは「武蔵塚」として残されています。
 逸話の多い猛将で、あと20年長生きしていれば大河ドラマになっていただろうになあ、などと思ったり。

 つわものどもの夢のあと、ともうしますか。