平安末期の武家を代表する名門であった源氏と平氏は、時に争いながらも、武士の地位を高めていった。彼らはどのように生まれ、いかにその地位を築いたのか。源氏の名を天下に知らしめた風雲児・八幡太郎義家、平氏の世を準備した正盛・忠盛と、全盛期を築いた清盛。源氏・平氏一族の歴史をひもとき、そのルーツを探る!
宮島 平清盛像

前九年・後三年合戦の役に義家の活躍で貴族となる

 清和源氏流武士の祖にあたる人物は、清和天皇の第六皇子貞純親王の子の経基である。皇族を離れて臣籍降下した際に源姓を賜った経基は、10世紀中頃に関東で起きた平将門の鎮圧に功を立て、早くも武将としての名声を得る。
 経基の子である満仲は、摂津国多田を拠点とする武士で、その子孫は多田源氏とよばれる。満仲には頼光・頼親・頼信という3人の子がおり、頼光が父同様に摂津国を拠点としたのに対し、頼親は大和国、頼信は河内国をそれぞれ拠点とした。

 いわゆる河内源氏の祖である頼信は、11世紀前半に房総半島で起きた平忠常の乱の鎮圧に成功する。またその子・頼義は、嫡男・義家とともに、11世紀中頃に起きた前九年合戦において、陸奥国の安倍氏を倒すという働きを見せる。
 さらに義家は11世紀後半の後三年合戦において清原氏との合戦に勝利し、東国における源氏の武威を大いに高め、武家棟梁としての清和源氏流の地位を確立したのである。

 武家棟梁とは、朝廷の命を受けて朝廷に敵対する勢力を討伐する武士たちを、全国規模で統率する立場のことである。清和源氏の他には、桓武天皇流の平氏が武家棟梁の地位を得ていた。
 前九年合戦と後三年合戦では、東国の武士の中から源氏の指揮下で戦うものが多くあらわれ、東国社会における清和源氏の武威が高まる。後年に頼朝が東国を基盤として鎌倉に幕府を開くことができた歴史的背景には、そのような状況があった。

 義家は、武士としての功積によって五位に叙せられ、多くの国の国司に任じられる。また義家は、白河上皇の近くに仕えて院御所への昇殿を許されるという栄誉にも浴している。
 五位になるということは貴族への昇進を目指す第一歩であり、朝廷社会の人々の誰もが目指すものであった。また五位は国司に任じられる資格にも相当していた。

◎次回は、6月11日(日)に更新予定です。