平安末期の武家を代表する名門であった源氏と平氏は、時に争いながらも、武士の地位を高めていった。彼らはどのように生まれ、いかにその地位を築いたのか。源氏の名を天下に知らしめた風雲児・八幡太郎義家、平氏の世を準備した正盛・忠盛と、全盛期を築いた清盛。源氏・平氏一族の歴史をひもとき、そのルーツを探る!
宮島 平清盛像

平忠常の叛乱の鎮圧の失敗で鎌倉の居館を源頼信に譲る

 平氏は、桓武天皇の第五皇子である葛原親王の子孫にあたる一族である。その中でも、武士として栄えた平氏は、葛原親王の子である高見王の流れにあたる。一方、葛原親王の子で平姓を賜った高棟の流れにあたる平氏は、文官官僚として活躍した人物を出している。ちなみに、平清盛の室である時子は、高棟流平氏にあたる。

 高見王の子で平姓を名のった高望は、9世紀末に上総介として下向し、そのまま東国に土着して武士身分となる。後に関東の各地で勢力を張る平姓の武士は、すべて高望の子孫にあたり、その流れは坂東平氏と称される。
 高望の子である国香は、常陸大掾・鎮守府将軍を歴任した武士で、常陸国に土着し真壁郡石田を本拠地とした。

 この国香の代に、関東に土着した平氏流武士の間で勢力争いが起き、その戦いの中で、承平5年(935)に国香は甥の将門に殺害されてしまう。やがて、一族内の確執が京の政治勢力を巻きこむ事態に発展し、その過程で将門は、「朝敵」として朝廷より追討を受けることとなった。やむなく将門は「新皇」を名のって関東で独立の動きを見せ、朝廷に対して公然と反旗を翻す。

 このいわゆる平将門の乱で、源経基・藤原秀郷等とともに将門追討の功を立てたのが国香の子・貞盛であり、その結果、関東における桓武平氏流武士団の勢力はひきつづき維持されることとなった。

 しかし、長元元年(1028)に房総半島で桓武平氏の忠常が起こした反乱の鎮圧に同じ平氏の直方が失敗し、かわって追討使となった源頼信が戦うことなく忠常を屈伏させるという武功をあげたことで、関東における平氏武士と源氏武士の勢力関係に大きな変化が生じはじめる。

 その変化が最も顕著に現れたのが、直方が自らの本拠地である鎌倉の館を頼信に譲るという出来事である。「源氏の都」としての鎌倉の歴史は、実はこの時点からはじまるのであった。また直方は、娘を頼信の子・頼義の妻とする。ちなみに、この2人の間に生まれたのが義家である。