Jリーグでもっともタイトルを獲得したチーム、鹿島アントラーズ。その数19――他クラブの追随を許さない結果を出してきた常勝軍団はいかにして作られたか。すべてのタイトルにかかわった強化部長で、6月に初の著書「血を繋げる。」(幻冬舎)を上梓した鈴木満氏に聞く、組織の在り方、リーダーの務め、アントラーズの秘密。

Q4.鹿島の礎を築いたジーコのすごさはどこにあったのでしょうか。

 

――ブラジルの偉人であるジーコが日本のクラブのためにあれほど尽くしてくれたのが不思議です。

鈴木 ジーコは何事に対しても本気でした。決して妥協しません。そこがジーコのすごいところです。
 初代チェアマンの川淵三郎さんから「鹿島のJリーグ入りは99・9999パーセント無理」と言われました。何しろ、ホームタウンが小さな地方都市で、プロサッカーがビジネスとして成り立つとは誰も思いませんでした。そういう中で地元自治体、経済界の協力を得て、サッカー専用スタジアムをつくり、Jリーグ入りを実現させました。しかし、チームの母体となった住友金属工業蹴球団は日本リーグの1部と2部を行ったり来たりの弱小チームでした。アントラーズはJリーグのお荷物になるだろうと言われました。にもかかわらず、ジーコは最初から「優勝する」と言い続けました。本気で言っていたのです。

――1993年Jリーグ初年度、開幕前のイタリア合宿でジーコがとてつもない怒りを表したことが語り継がれています。

鈴木 あの合宿で鹿島はクロアチア代表に1―8で大敗しました。その試合のハーフタイムでジーコは髪の毛を逆立てて怒りを爆発させ、「おまえらも同じプロだろ! 勝つつもりはないのか!」と叫びました。ジーコはすべての試合で勝とうとします。「負けるかもしれない」と思って試合に臨むことがありません。クロアチアに完敗したあの日からアントラーズは変わりました。そして93年の第1ステージでジーコが唱えたとおり、鹿島は優勝しました。開幕戦のジーコのハットトリックは伝説になりました。

――ジーコは選手として活躍しただけでなく、プロクラブづくりをリードしてくれました。

 

鈴木 ジーコは鹿島を本物のプロにするために命を賭けていたと言っても大げさではありません。
 「プロとは何か」を我々に伝え、環境整備に力を注いでくれました。ジーコは自分が本気だから、人に対しても非常に厳しくて、連日、説教を聞かされました。私は一方的に怒られるばかりです。でも、いくら罵声を浴びせられても、反抗的にはならず、「この人についていこう」という気持ちになりました。
 それはジーコが本気だったからです。ジーコの本気にこちらも本気で応えました。Jリーグの草創期にはリネカー、リトバルスキー、ディアスら世界的な大物選手が日本でプレーしましたが、ジーコのように本気でプロクラブづくりに取り組んでくれた人はいませんでした。ジーコがいなかったら、いまの鹿島はありません。

――ジーコは厳しさ一辺倒だったのですか。

鈴木 厳しいけれど、優しさもありました。ある合宿でホテルの手配がうまくいかなかったり、練習場にシャワーがなかったり、落ち度がたくさん重なったことがありました。
 遅れて合流し、ブラジル人選手から不平を聞いたジーコは私に「おまえなんか、鹿島に帰れ!」と雷を落としました。しかし、夜中にもう一度、私を呼び出し、「こういう問題が起きたときはこういうふうにすればいいんだ」と対処法を丁寧に諭してくれました。そういうところにジーコの優しさを感じました。
 ジーコは私が強化責任者になったばかりのころ、練習中に必ず私を自分の隣に座らせ、雑談をしました。ジョルジーニョをはじめとしたブラジル人の大物選手がその様子を目にすれば、私とジーコが近い関係にあると理解します。ジーコはそうやって、私の権威づけをしてくれたのです。そのために私をいつも隣に呼んでいるとは説明しませんでしたが、そういうことだったのです。

――ジーコの配慮がよくわかります。

鈴木 新しいブラジル人の監督や選手が加入すると、ジーコはいつも冗談をまじえながら、鹿島の昔話を長々としました。
 「発足当初はロッカールームの床がコンクリートで、個別のロッカーもなかったし、パイプ椅子だったんだぞ。笑っちゃうだろ」と言いながら、必ず「でも、こいつらがハンガーを掛けるフックを買ってきて壁に取りつけたりして、一生懸命、環境を整えてきたんだ」と付け加えてくれました。
 アントラーズの歴史を一から築いてきた我々を評価し、ブラジル人が敬意を抱くように仕向けたのです。そういうところにジーコの細やかさと優しさを感じました。
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