嵐を呼ぶ画家・海北友松

 京都国立博物館で5月21日まで開催されていた特別展「海北友松」。あいにく予定が詰まっており行けずじまいで終わったので、所用で上洛した家人に図録だけ買って来てもらいました。

 

 図録を開いて友松の雄渾な筆致を眺めておりますと、やっぱり無理しても行くべきだったな、と悔やまれます。巡回しないのでこれっきりだったんですよね。

 図録の表紙の龍は京・建仁寺の「雲龍図」の一部ですが、龍は雲を起こし風を生じさせる、まさに嵐を呼ぶ存在。そう考えると、この龍はまさに友松そのもの、友松は自分自身をこの龍に託して描いたのかも知れません。彼の人間関係を見ると、実に興味深いものがあります。

 まず父の綱親はじめ兄弟は皆戦死。そして主家の浅井長政も織田信長に討たれて滅亡。このとき友松は東福寺で学問修行をしていたためこの惨事から逃れました。その後は一時還俗して海北家を再興しようとつとめ、この頃、斎藤利三と親しくなったと考えられます。利三は美濃斎藤氏の出(道三の系統ではなく、本来の斎藤氏)で、美濃が織田信長に攻め滅ぼされたという点では友松と同じ境遇でしたから、その部分で気が合ったのではないでしょうか。あるいは、『寛永諸家系図伝』によれば利三は当初三好長慶の重臣・松山新助(堺の出身)の寄騎として働き京の鴨川の支流・白川で軍功をあげたとありますから、その頃知り合ったのかも知れません。

 天正10年(1582)、利三が主君の明智光秀に進言して本能寺の変を起こし、羽柴秀吉に敗れて粟田口ではりつけにかけられると、友松は刑場に暴れこんで利三の首を強奪(または盗み出)して弔ったと孫の友竹が記録しています(「海北友松夫妻画像賛」、ただし『中興武家盛衰記』という史料では、利三の次男・利光が盗み出したことになっています)。また、彼はその後の利三の妻子の世話もしたとか(『海北家由緒記』)。今も京都真正極楽寺の友松夫妻の墓の隣りには、利三の墓が寄り添う様に残っていますね。

 その後は画業に励み秀吉にもその才能を認められたようで、慶長3年(1598)夏、秀吉の命令で石田三成が九州におもむきます。この頃秀吉はすでに死病にとりつかれて寝込んでいましたから、朝鮮に滞陣している諸大名の引き揚げに向けての予備的な出張だったのかも知れません。この三成一行の中に、友松もいた、と『九州下向記』にあります。
「絵かく事に妙なる友松という人は、都出るより、仮の宿りまでも同じ様にと、語らいけり」。

 筆者の是斎重鑑は友松と意気投合したようで、友松は道中、正式な宿(寺や宿屋)ではない仮宿(民家など)に泊まる時でも、同じ屋根の下に泊まろう、と重鏡に言っています。意外と気さくな人物だったのかも知れません。

 この旅はむろん友松にとって画題になる名勝をめぐるという目的もあったのでしょうが、道中と九州の現地の様子をスケッチして徳川家康ら五大老以下に見せるように命じられたのかも知れません。現代でいうところの派遣カメラマンですね。

 ところが友松らが出発した直後の9月に秀吉は世を去り、2年後には旅を共にした三成も関ヶ原の戦いで処刑されてしまいます。それどころか、これも以前から親しくつきあっていた安国寺恵瓊(東福寺の退耕庵主だった関係で友松と知り合ったか)も三成ともども打ち首にされ生涯を終えました。

 関ヶ原合戦のさらに2年後、彼は親しい八条宮智仁親王(はちじょうのみや・としひとしんのう)の依頼で「山水図屏風」を制作します(現・東京国立博物館所蔵)が、この親王さまものちに兄の後陽成天皇が皇位を譲ろうとしたところ、かつて秀吉の猶子(養子よりも軽い)だったために豊臣家ゆかりの人間として徳川幕府から忌避され、天皇にはなれませんでした。

 まさに友松の知己たちは揃いも揃って見るも無惨なありさま。友松は“嵐を呼ぶ男”だったと言えます。ですが、友人たちの不幸に対する行き場の無い怒りが、友松の画業に反映されてその鋭く重厚な作品を生み出す原動力になったとしたら、彼らの死も無駄ではなかったのかも知れません。