実に東京都人口の3分の1、420万人が住む多摩地域。370万人の静岡県(日本第10位)よりも多い多摩は歴史の宝庫であった。江戸文化を中心に多方面に造詣の深い著者・中江克己が多摩の歴史や地名の由来を紹介する。

「多摩」の由来

 東京都のなかでも東京23区の西側は「三多摩」とか、たんに「多摩」と呼ばれている。多摩各地の地名には、なぜそのような地名がつけられたのか、不思議地名があるし、難読地名も少なくない。いずれにせよ、多摩の地名には興味深いいわれや歴史があって、好奇心がかきたてられる。まず不思議なのは、なぜ多摩という地名がついたのか、だろう。

 多摩の地名は、古代から使われてきた川の名や郡名から使われるようになった。たとえば、万葉集につぎの歌がある。

「多摩川に曝す手作さらさらに 何ぞこの児のここだ愛しき」

 多摩川については、古くは霊力をもった川ということで「魂川」と呼ばれ、その後、多摩川になった、とされる。

 武蔵国分寺が造営されたのは奈良時代、聖武天皇のときだが、国分寺跡(国分寺西元町一)から出土した瓦に上多摩郡、下多摩郡の地名が記されていることがわかった。当時の行政区画に「多摩」が使われていたわけだ。

 江戸が東京と改称されたのは慶応4年(1868。9月8日から明治元年)のこと。多摩郡は江戸時代、武蔵でもっとも大きな郡で東側は四谷淀橋が隣の豊島郡との境になっていた。

多摩地域。白い部分は23区に該当。

 廃藩置県によって、地方行政が変わったのは明治4年(1871)で、神奈川県に移管されていた多摩郡が南多摩郡、北多摩郡、西多摩郡に三分割された。この三郡が東京府に移されたのは、明治26年(1893)のことだった。

 その後、昭和にいたるまで編入、合併が続き、昭和45年(1970)に北多摩郡が消滅し、翌年には南多摩郡もなくなった。現在では、瑞穂町、奥多摩町、日の出町、檜原村を含む西多摩郡が残っているだけである。

「多摩」という地名には、さまざまな歴史があって興味が尽きない。

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