<第26回>

3月×日
【タクシー 職業を偽る】(前編) 

終電を逃してしまった。

春のはじめとはいえ、まだまだ夜は寒い。駅前に追い出された僕の頬を冷たい風がなでる。まるでスピッツの歌詞のようだが、実際は地獄である。

先ほどまで酒で上気していた身体は震え、タクシーに乗ろうにも財布の中にはチェリーほどの小銭しか入っておらず、途方に暮れる。またしてもスピッツのような瞬間が見受けられたが、実際は地獄である。

終電を逃したときほど、己の貧しさに打ちひしがれる場面はない。初乗り料金すら持たざる者に残された道はふたつ、「歩く」か「道で寝る」かである。

さっきまで小汚い居酒屋にてしたたかに酔い、隣に座った見知らぬおじさんに「ロボットレストランって知ってっか?」「Mステでおっぱいポロリって知ってっか?」「それはスパムだから踏んじゃダメだって知ってっか?」などといったTwitter世代丸出しの知識を上機嫌で披露していたのに、終電を逃しただけでこの惨めさである。「歩く」か「寝る」かだなんて。将棋の桂馬のほうが、よっぽどアクティブな動きができる。
人間なのに駒よりもランクの低い存在と成り果てた僕は、今夜は道で寝ると確実に凍死するので歩こうと決め、力なく足を家路へと向けた。

家まで徒歩で何時間かかるのだろう。だいたい、家の方向はこっちで正解なのだろうか。パン屑をまいておけばよかった。北風は僕のコートを脱がす勢いでますます強く吹きつけてくる。なんだ、このグリム童話およびイソップ物語的な展開は。

絶望が身体中に染みる。

寒さで手がかじかみ、コートのポケットに手を入れると、「かさり」とした感触があった。まさかと思い、それをつまみだすと、なんと、一万円札であった。


1

おお我が友 壱万円

薄くて頼れる 夢の貨幣

君がいてくれるだけで 強くなれる気がしたよ

ああ 壱万円  おお壱万円

 

2

おお愛しの  壱万円

寿司屋でおまかせ 怖くない

やろうと思えばJINSでメガネ  三つも買える

ああ 壱万円  おお壱万円

 

唐突に一万円を手に入れた喜びから、頭の中に自然と歌が湧き出した。メロディーは完全に僕の出身中学の校歌そのものだが、リリックは一万円への愛を表現したオリジナルのものである。
嬉しかった。

おそらく去年の冬からずっとコートの中に入れっぱなしだったのであろうその一万円札を握りしめ、僕は高らかに手をあげタクシーを止めた。

運転手に行き先を告げ、暖かな車内のシートに身を沈める。
車窓に流れる夜景に目を細める。
貧しいマッチ売りの少女はマッチの弱々しい炎の先に一瞬の贅沢な夢を見たわけだが、僕はいま一万円札に火を灯し、刹那の金持ち気分を味わっている。
ああ、できるだけ長いこと、このタクシーの車内で現実から目を背けていたい!

常時、財布には20円と蛇の抜け殻とポンタカードしか入っていない僕は、滅多にタクシーに乗ることはできない。それでも年に一度か二度、このような幸運が起き、奇跡的にタクシーに乗れる日がある。
そんなとき、僕は必ず、タクシーの車内で、ちょっとした遊びを行う。

この辛い現実から一瞬だけ逃避する、ささやかな遊び。
それは「タクシーの運転手に、職業を偽る」である。
(次回に続く)

 

 

 

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