イラスト/フォトライブラリー
『江戸の性事情』(ベスト新書)が好評を博す、永井義男氏による寄稿。

 幕府の寺社奉行などを歴任した鳥居忠孝は壬生(栃木県壬生町)藩の藩主だった。忠孝は当時、日本一の美男と言われた。今風に言えば「イケメン殿さま」であろうか。
 美男ゆえの悲劇が『頃日全書』に記されている。

 鳥居忠孝の正室は津和野(島根県津和野町)藩亀井家の出身で、夫婦仲は睦まじかった。
 元文元年(1736)、忠孝は壬生にお国入りした。大名の正室は江戸藩邸を離れることはできない。正室は夫との別れを悲しみ、「殿さま恋しい、ゆかしい」と嘆き悲しんだ。侍女たちがいろいろとなぐさめたが、「下野の壬生とやらへ、私も連れていけ」と、半狂乱になる始末だった。
 ついには正室は病を得て、「こがれ死に」のような状態で死去した。

 江戸に戻った忠孝は正室の死を悼み、後妻は求めないと心に誓った。ただし、正室とのあいだには子供がなかった。跡継ぎをどうするか。
 おりもおり、芝に住む町人の娘お甲(名前は不明なので、仮に名づけた)が忠孝の美男の評判を聞いて、妾になりたいと思った。そこで、弥七という口入屋を通じて、壬生藩邸に申し入れた。
「お殿さまの妾にしていただければ、支度金も給金も不要でございます」

 大名が町人の娘などを妾にするとき、相応の支度金を渡し、給金も支払うのが普通である。ところが、支度金も給金もいらないという。忠孝がお甲を呼び出してみると、なかなかの美人であり、行儀作法も心得ている。
 そこで、口入屋に相応の金を払って妾に召し抱えた。忠孝はお甲を寵愛したが、子供が生まれない。
 跡継ぎのないことを心配する家臣の勧めもあって、べつにお吟という女を妾にした。すると、間もなくお吟が懐妊し、やがて男子を生んだ。

 男子を生んだお吟は「お部屋さま」と称され、壬生藩内での地位は高まった。なんせ、将来の壬生藩主の母なのである。いつしか忠孝の寵愛もお吟に向かった。見捨てられた形になったお甲は悔しくて仕方がない。

 お甲は癪(しゃく)と称して、針医師を奥に呼び寄せた。大名屋敷の奥は、江戸城の大奥と同様、男子禁制の世界だが、医師は出入りを許されていた。また、医師は腰に脇差を帯びるのを許されていた。
 医師は次の間に脇差を置き、お甲の座敷にはいった。いざ針療治を始めようとすると、お甲は、「ちとお待ちくだされ。小用をたしてまいります」と言って座敷を抜け出た。次の間に医師が置いていた脇差を取るや、そのままお吟の座敷に向かった。

 ちょうどお吟は鏡に向かい、侍女に髪を結わせているところだった。お甲は背後から、「ねたましや。日ごろの恨み、思い知れ」と叫ぶなり、脇差で斬りつけた。
「きゃー」と悲鳴をあげ、侍女が走り去る。お甲はお吟に止めを刺したあと、刀を取り直すと、その場で自分の喉を突いて自害して果てた。

 その後、鳥居忠孝は、「女には懲りたぞ」と、二度と妾を求めることはなかった。