遅ればせながら、大ベストセラー歴史ドキュメントの文庫化
『本能寺の変431年目の真実』 (明智憲三郎著、文芸社)
を読みました。
織田信長が天下統一を目前にして斃れた
「本能寺の変」の真相?について
「客観的・科学的な歴史捜査」を売りにした内容は
果たしてどういうものなのか、
どんな点が支持されて売れているのか、
そのあたりに興味を持ったためです。

信長といえば、今から441年前の天正2年6月17日
(現在の暦で1574年7月5日)は
遠江国高天神城を救援するために出陣した彼が
三河国吉田城に到着した日。
武田信玄も落とせなかった難攻不落の要害で
当時は徳川家康の拠点となっていた高天神城は、
前月12日から信玄の子・勝頼の軍勢2万5,000に包囲されていた。

信長は6月5日「遠州在陣衆に兵糧を搬送する様、
領内の方々に申しつけた」と書状に記しており、
後方支援を展開していたが、
6月10日に家康から援軍要請の使者が到着する。
これに対し信長は
「なんとか籠城衆にがんばってもらって食い止めている間に
織田・徳川の連合軍で後詰し、勝頼を討ち取ろう」(『松平記』)
と宣言したが、城はすでに西の丸を落とされ
本丸と二ノ丸を残すのみとなっていた。
信長は6月14日に岐阜を出陣し、
その日のうちに三河岡崎城に到着する。
さらに東へ進んで17日には
東三河の吉田城に到着したというわけだ。
ところがあくる日、高天神城では寝返りが置き、
持ちこたえられないと判断した
城主・小笠原長忠は降伏してしまった。
翌19日、浜名湖今切の渡を越えたところで
落城の報せを受けた信長は引き返すことになる。

信長は「合戦に持ち込めず、無念」と吉田城に戻り、
あいさつに来た家康に大人2人でようやく持ち上げられる
黄金入りの革袋2つを兵糧代として贈る。
信長の子・信忠も「あと少しのところで
持ちこたえられなかったために、作戦を実行できなかった
(「行(てだて)に及ばす」)のが残念だ」と書き送っているから、
信長同様これが織田家としてのステートメントということなのだろう。

このとき家康の兵力は1万、信長は2万(『武徳編年集成』ほか)
といい、作戦通りなら高天神城の守兵と
呼応して武田軍を挟み撃ちし、
有利に戦闘を進めることができた筈なのだが、
城が降伏してしまったとなると都合3万の軍勢では
城と武田軍に対することは不可能だ。
一般的にこのとき信長は勝頼との決戦を望んでおらず、
わざとゆっくり進軍したとも言われているが、
神ならぬ信長が城の降伏時期を予見していたわけがない。
城の将兵も「6月中は城を堅固に持て」と指示を受けていた
(『松平記』)ことからも、信長・家康は
決戦時期を7月と想定していたのだろう。

つまり梅雨が完全に明け、鉄砲が使用可能となるタイミングだ。
信長・家康がこの作戦案をいかに気に入っていたかは、
家康が信長に「信用できない人物を城主にしてしまい、
作戦を台なしにしてしまった」と謝罪していること(同書)、
翌年2月に奥平信昌を長篠城主としていることからも見て取れる。
長篠は東三河の武田との境界の城であり、
奥平家はかつて徳川から武田に寝返り
また徳川に帰参したために
もう武田には絶対に降伏できない事情を持っていた。
こうしておいて5月下旬(理想より早いが、
長篠陥落が迫っていたためやむをえなかった)に
決戦に持ち込み、武田軍を撃破するのだ。

冒頭の話に戻りますが、信長はこの高天神城救援、
長篠の戦いと2度その軍勢を三河・遠江に進めております。
だけでなく、のち家康の嫡男・信康の死に至る
徳川家内部の粛清事件の前には何度も徳川領におもむいて
鷹狩りという名目の現地調査をおこなっております。
それだけでなく、領内の商人たちからも
徳川領への物資配送(前述のとおり)を通じて
情報収集をしていたのは間違いないところです。
『本能寺~』の明智氏は天正10年に勝頼を滅ぼしたあとで
徳川領内を通過して帰るのは徳川攻めに備えた
情報収集だった、と主張されていますが、
駿河はまだ手に入ったばかりで実効支配地とはいえず
遠江・三河の様子は既知、というなかでその説は
「客観的」「科学的」「捜査」には苦しいのではないか、
と私見ながら思いました。