大谷吉継が11年間、
統治した港湾都市・敦賀

 日本海に面した港湾都市として、昔から栄えた福井県敦賀市。都から「越の国」(北陸~上越地方)へ向かう入り口とみなされ、水陸とも多くの人が行き交う要衝でもあった。
 豊臣秀吉が天下取りへと突き進んでいた頃、この敦賀には城が築かれ、やがて5万石の城下町として繁栄する。天正17年(1589)、秀吉が敦賀城の城主に抜擢したのが大谷吉継であった。若い頃から石田三成らとともに秀吉の馬廻りとして活躍。長じてからは豊臣政権の中枢を担う武将として知られていた。
「吉継に100万の兵を任せ、指揮させてみたい」
 一説によれば、秀吉はそのように吉継を評した。彼であればこの要衝の地を任せるにふさわしいと考えていたのだろう。
 その吉継の居城・敦賀城は、万葉集の時代から知られる敦賀の景勝地「気比の松原」の近くにあった。吉継は城とあわせて湊の整備にも力を注ぎ、伏見城の建築資材など物流の面からも豊臣政権を下支えした。
 吉継は慶長5年(1600)、石田三成の軍に加勢し、関ヶ原の戦場に散った。江戸時代になると、敦賀は京極忠高や酒井忠勝の治める小浜藩の領地として栄えていくが、敦賀には今も吉継の活躍の痕跡が点在する。
 敦賀城は元和2年(1616)に破却され、建物は何もなくなってしまったが、その跡地には八幡神社が建つ。統治に古くから存在した神社で、ここには敦賀城の欄間や礎石、吉継が愛した茶壺、吉継が寄進したとされる石の大鳥居、石灯籠、龍の彫刻などが残されている。
 八幡神社から西に少し歩くと、来迎寺がある。寺の本堂内にある腰高障子は。元々敦賀城にあり、大谷吉継が関ヶ原合戦の前、来迎寺に預けたという逸話がある。山門も敦賀城の中門が移築されたと伝わる大変貴重なものだ。
 金ヶ崎方面へ向かう途中にある永賞寺には、吉継の供養塔が建つ。関ヶ原の合戦の9年後、この寺に立てられたものとされ、現在も参拝者が絶えない。
「みなとつるが山車会館」には、敦賀まつりで巡行する山車が展示されているが、別館の特設コーナーでは吉継の功績を解説。ぜひ訪ねてみたい。
 敦賀半島方面へ足を延ばせば、「文禄の役」(朝鮮出兵)で吉継が持ち帰り奉納したと伝わる国宝・朝鮮鐘を所蔵する常宮神社もある。
 敦賀市街地だけでも、吉継に関連する見どころがこれだけ多く点在し、地元民の崇敬ぶりが窺える。大谷吉継をモチーフにした公認キャラクター「よっしー」まで生み出した敦賀市。義将・大谷吉継を偲ぶのに、これほどふさわしい町もないだろう。
 

大谷吉継/1565?〜1600。若くして秀吉に仕える。関ヶ原の戦いでは石田三成に味方し、敗軍の将として戦死。義に厚い名将として崇敬される。

 

来迎寺・中門/大谷吉継の居城・敦賀城から移築されたと伝わる。同寺には同じく敦賀城から移管されたと伝わる、腰高障子も残されている。

 

関が原合戦図屏風/敦賀市立博物館が所蔵する屏風図。幕末に描かれた作品。病をおして出陣し、顔を頭巾で覆った姿で手には槍を握った吉継の姿もある。

 

金ヶ崎古戦場跡/敦賀は大谷吉継ゆかりの地であるとともに、織田信長と羽柴秀吉が九死に一生を得た「金ヶ崎の退き口」の舞台でもある。その古戦場が金ヶ崎城跡として残る。麓に建つ金崎宮には、信長の妹・お市が兄に送った小豆袋をかたどったお守りや絵馬などが販売されており、人気を博している。併せて訪れたい。




問い合わせ先
敦賀市観光振興課 ☎0770-22-8128