現在発売中の「歴史人」8月号では「応仁の乱」を大特集。現在30万部を超えるベストセラー『応仁の乱』(中公新書)の歴史世界を様々なビジュアルを使って分かりやすく解説。より深く掘り下げた記事も満載している。

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 戦国時代の幕開けのきっかけともなった「応仁の乱」。戦国時代研究の第一人者である小和田哲男氏は、応仁の乱が日本の歴史に与えた影響について、次のような文を本誌に寄せている。

「応仁・文明の乱がその後の歴史に与えた影響とは何だったのだろうか。
 一つは、将軍権力の完全な失墜と幕府の有名無実化である。それまで将軍なり幕府にそれなりの存在意義と価値が認められていたが、応仁・文明の乱以後、幕府は中央政権というより、極論すれば、山城地方を支配する一地方政権に没落してしまったことになる。
 二つ目は、下剋上の機運が急に大きくなったことである。それまでの「権威」による支配が通用しなくなり、「実力」による支配がすべてに優先するようになった。
 そして三つ目は、村落内部の変化である。在地に根をおろし、着実な領主制を展開してきた国人領主や土豪層が、在地支配をおろそかにしてきた守護大名に代わって力を蓄えてきたわけである。このあと、守護代が守護大名を倒して戦国大名化していく動きはその象徴といってよい。
 また、四つ目として指摘できるのが戦法の変化である。応仁・文明の乱はそれまでの戦法を大きく変えている。具体的には足軽の活躍である。足軽そのものは南北朝期にも存在し、『太平記』などによって確認されるので、応仁・文明の乱のときはじめて登場してきたわけではないが、足軽が戦いの第一線で活躍するようになったのは、このときからで、その後の戦国時代の戦い方に大きな影響を与えたことはまちがいない。
 最後に五つ目として、やや副次的なものということにはなるが、その後の歴史に与えた影響として落とすことのできないのは文化面である。前後11年におよぶ戦乱で、しかも京都は焼け野原となった。公家たちは家を焼かれただけでなく、荘園からの年貢も入ってこなくなった。なかには直務支配という形で、自ら荘園に乗りこんで年貢を徴収する公家もいたが、多くは地方の有力守護大名を頼っていった。その結果、京の文化が地方へ拡散することになり、のちに戦国三大文化などといわれる周防山口の大内文化、駿河府中の今川文化、越前一乗谷の朝倉文化という形で地方文化の花が開くことになる」

 なぜ今、応仁の乱は注目されているのか? ぜひ本誌を参照していただきたい。