わが子を将軍につけようと暗躍し、「応仁の乱」を招いた悪女。権勢を利用し巨万の富を築いた守銭奴──。日野富子を語るとき、多くの歴史家の評価は芳しくない。その評価の真偽、そしてなぜ悪名を刻まれたのか?
「歴史人」8月号では、残された数少ない歴史的史料から、歴史研究家の渡邊大門氏が実像に迫っている。その中から一部を紹介する。

「応仁・文明の乱の大きな原因は、8代将軍義政の政治的手腕の無能さとその妻・富子の政治介入などにあるといわれている。特に、富子については、政治への介入だけでなく、蓄財能力に長けており、後世に至って「悪女」「守銭奴」といった不名誉なレッテルを貼られることになった。しかし、そうした評価は一方的なものがあり、改めて検証する必要があろう。

 日野家は富子だけでなく、兄の勝光や配下の家司も経済的な才覚があったという。つまり、富子は、そうした家風を受け継いでいたということになる。京都の周辺には「京の七口」と呼ばれる関所があり、通行料を徴収していた。富子がそこに関所を作らせ、管理していたことは有名である。富子の卓越しているところは、関所の通行料を徴収し得た資金で高利貸しを行い、米商売にも携わっていたことである。副業を営むことにより、ますます財を築いたのである。

 その財によって、夫の義政やその親類は潤った生活をすることになり、富子にまったく頭が上がらなくなった。頭が上がらなかったのは、決して義政たちだけではない。当時、富子から恩恵を受けようとして、京都市中の多くの人が頼りにしたというのだ。室町幕府の財政がますます窮乏するのと相反するように、富子の財産は驚くほど増していった。富子はなかなか強欲な女性であり、財の蓄積に余念がなかったと言われる理由である。

 そもそも関所を築いた理由は、内裏修理が目的であった。幕府と同様に、朝廷の財政も非常に厳しかった。実際には、内裏修理は名目的なものであり、本当は富子が私物化するためのものだったといわれている。関銭徴収に反対して、土民らが抵抗を試みるが、富子は決して屈することがなかったという。それらは、本当に事実なのだろうか。

 実のところ、必ずしも富子は、私利私欲のために財を蓄積していたとは言えないようである。その点を確認しておこう。当時、戦乱のなかにあって、天皇、公家、寺社は困窮の極みにあった。富子は苦境を見かねて、財政支援を惜しまなかったといわれている。同時に富子は、朝廷との取次役も担っており、その存在は重要であった」

 日本を代表する悪女といわれる富子の真実はいかに。

「歴史人」2017年8月号「日野富子は本当に悪女だったのか?」より。〉

日野富子関係図