芥川龍之介。本好きでなくともその名前と代表作は誰もが知っている、言わずと知れた日本の代表的作家だ。その「アイドル性」を新刊『芸能人と文学賞 〈文豪アイドル〉芥川から〈文藝芸人〉又吉へ 』を上梓、注目を集める川口則弘氏が解説する。

よしもとも芸能×文学に本腰。歌手からAV女優まで芸能界にちらばるネクスト又吉

菊池寛×佐佐木茂索。最強コンビが作り上げた直木賞と芥川賞

 1934年。文藝春秋社の社主だった菊池寛さんが言い出して、専務の佐佐木茂索さんがつくりあげたのが、二つの文学賞、直木賞と芥川賞です。

 こういうものは、何より継続的に使えるお金がなくては始まりません。文藝春秋社の、会社経営から上がる儲けの一部を、経費や賞金に当てることで、短命に終わらせずに長く続けられる仕組みをつくったのが、彼らの偉いところでした。

 好き勝手なことを言いたがりの菊池さんと、カネ勘定と管理能力に長けた佐佐木さん。この黄金コンビは、ともにかつては実作家だった、ということの他に、菊池さんは時事新報の社会部記者、佐佐木さんは同社の文芸記者と、新聞社に勤めた経験がある点でも共通しています。直木賞と芥川賞をつくったとき、最初からマスコミの力を借りて、これを利用していくことが織り込み済みだったのも、両賞が(とくに芥川賞が)うまく成功の波に乗ることができた要因です。

 たとえば1934年12月の、創設発表なども、自分のところの雑誌『文藝春秋』(35年1月号)が発売されるよりもまえに、新聞各社に案内して大きく報じてもらいました。そこから第一回が決まるまでの半年間、芥川賞はいったい誰に贈られるのか、と少なくとも文壇界隈では話題になり、臆測記事なんかが新聞に載ったりします。

 もちろん、いまの両賞に関する報道量とは比較にはなりません。でも、マスコミの規模や種類が、かなり小さかったんですから当たり前です。「はじまったころは、いまほど話題にならなかった」という、両賞を語るときの定番のマクラがありますが、そこでよく引用される菊池寛さんの有名な一文、芥川賞、直木賞の発表には、新聞社の各位も招待して、礼を厚うして公表したのであるが、一行も書いて呉れない新聞社があったのには、憤慨した。(『文藝春秋』35年10月号「話の屑籠」)

 というのは、もう『東京朝日新聞』一紙に対する菊池さんの言いがかりでしかなく、じつのところ主要な新聞にはほとんど取り上げられています。ひいき目にみても、ずいぶん話題になったもんだよなあ、としか思えません。

 

 創設当初で、もう一つ有名なのが、太宰治さんがやたら芥川賞を欲しがった、という逸話です。どうしてそんなに切望したのか、その理由の一端は、太宰さんは津軽にいたときから、とにかく芥川龍之介さんに憧れていたから云々、と伝えられています。猪瀬直樹さんの『ピカレスク 太宰治伝』(2000年1月・小学館刊)によると、こんな感じです。

メディアのなかの芥川龍之介とはなにか、である。繊細な長い指で、秀でた額にかかる豊かな髪をかき分けるその写真は文学全集の広告の定番であった。(引用者中略)修治(引用者注:太宰)はしばしば教科書の端っこや大学ノートに自画像を描いた。たしかにナルシシズムに違いないが、時代の尖端を疾駆するスタア、文化の時代のヒーロー、芥川龍之介に自分を重ねることでもあった。(前掲書)

 芥川の写真を真似て、自分も同じかっこうで写る太宰。というのは同じ猪瀬さんの『作家の誕生』(2007年6月・朝日新書)のオビでも強調されているくらい、楽しいエピソードなんですが、芥川さんの見た目のカッコよさは、ずいぶん全国的に知れ渡っていたわけですね。

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