イラスト/フォトライブラリー
『江戸の性事情』(ベスト新書)が好評を博す、永井義男氏による寄稿。

 滝沢馬琴は謹厳実直で、当時としては当たり前の女郎買いなどとはまったく無縁であり、卑猥なことも毛嫌いしていた。
 ところが、親類の娘が男と駆落ちをした。
 馬琴としては世間に対して恥であり、憤懣やるかたない気分だったであろうが、几帳面に日記に記している。そのあたりの生真面目さがなんとなくおかしい。
『馬琴日記』によると、つぎのような次第だった。

 馬琴の長男宗伯の妻はお路といい、町医者の娘である。お路は三人きょうだいの末っ子で、兄は町医者、姉のお静は芝の田町に住む男のもとに嫁いでいた。
 天保二年(1831)七月十四日、麻布に住むお路の実母が使いを立て、手紙を届けてきた。その手紙によると、

 お静の娘のお定が七夕の夜、家からいなくなった。
 お定はことし十九歳。
 衣類や櫛などの髪飾りも持ち出されている。
 このような状態なので、男と駆落ちしたと思われる。
 方々を尋ねているところ。

 ということだった。
 出奔したお定は、お路の姪にあたる。馬琴にとっては息子の嫁の姪であり、現代の感覚では親戚の意識は希薄だが、当時は親類縁者と意識されていた。
 お路から事情を聞かされ、馬琴は親類縁者がしでかした不祥事に怒りを覚えた。日記に、

 淫奔なるべし。

 と書いた。出奔ではなく、淫奔と「淫」の字を用いているところに、いかにも馬琴の苦々しい気分が表われている。
 二十四日、麻布の母からお路に手紙が届けられた。それによると、

 お定は男と神奈川宿に隠れているのを発見され、連れ戻された。

 二十日までお定は実家に閉じ込められていたが、その後、堀留町の叔母(お定の父の妹)の家にあずけられたという。

 お定と男はなんともあっさり発見されたものである。
 ちょっと不思議な気がするが、当時の旅はすべて歩きだからさほど遠くへはいけない。さらに駆落ちだから手形がないので、箱根の関所は越えられない。
 そんなことから、神奈川宿あたりとほぼ見当がついたのかもしれない。

 このような男と女の駆落ちが多かったことは、これまでにも述べてきた。町人の娘だけでなく、武士の娘にも駆落ちは少なくなかった。