イラスト/フォトライブラリー
『江戸の性事情』(ベスト新書)が好評を博す、永井義男氏による寄稿。

 市谷に屋敷のある旗本の息子が剣術の稽古に出かけたとき、中間(ちゅうげん)が供をしなかった。帰宅した息子が叱った。
「なぜ、供をしなかった」
 中間はあやまるどころか、いろいろと屁理屈をこねて言い返す。

 カッとなった息子が刀を抜いて、一太刀浴びせた。
 ちょうどそこに、外出していた父親の当主が戻ってきた。驚いて息子から刀を奪い取ると、一室に押しこんだ。
「そのほうは、ここひかえておれ。外に出ることは許さぬ」
 状況を知り、息子の妻が脇差を持って現われ、夫に言った。
「これでとどめをさしてください」
「とんでもないことじゃ」
 当主は、息子の妻から脇差を取りあげた。

 その後、当主は息子夫婦を懇々とさとした。
「かねて願っていた役職が四、五日のうちに実現しそうなのじゃ。大事なときだけに、騒ぎにせず、内済(示談)にしたい」

 そして、用人に命じて医者を呼び寄せ、中間の手当てをさせた。医者はいちおう傷を縫って治療をほどこしたものの、容体を診て言った。
「とても助かりそうもありません」
「中間が死んでしまったら内済はできぬ。無礼を働いたので手打ちにしたという届けを出した方がよかった」
 当主は後悔したが、もはや後の祭りである。けっきょく、その夜、中間は死んだ。

 

 口入屋を通じて雇った中間だった。知らせを受け、口入屋の女房がやってきた。
「慮外につき、手討ちにした。死骸を引き取れ」
「御手討ちとあらば、致し方ございません。死骸はこちらで引き取りましょう。念のため」
 そう言うと、女房は中間の死体を丹念にあらためた。ややあって、女房はこう言い放った。 
「慮外につきお手討ちというのは偽りで、無理殺しに違いありますまい。お手討ちにした者の傷を縫うなどありましょうか。その筋に訴え、ご吟味を願うつもりです。このような死骸を引き取るいわれはございません」

 さあ、困ったのが当主である。いろいろなだめたが、口入屋の女房は頑として聞き入れない。けっきょく、死んだ中間の身寄りの者に慰謝料を払うことで内済が成立し、当主は三十両を支払う羽目になった。
 こうして内済にはなったものの、噂が広まる。とうとう、当主が願っていた役職は実現しなかった。

『反古のうらがき』に拠ったが、嘉永年間の事件のようだ。
 それにしても、夫に脇差を渡して、「とどめをさせ」と激励した妻。旗本を相手に颯爽と啖呵を切った口入屋の女房。
 女の方が男よりはるかに毅然としていた。