応仁の乱や火災などで、いくたびも多くの建物を失いながら、なぜ10万点を超すともいわれる文化財・史料を今日に伝えることができたのか。その素朴な疑問を解明する。

いざとなったら大事なものを持って逃げる!

国宝「孔雀明王像」中国 北宋時代・11~12世紀 京都・仁和寺蔵 ※展示替あり

 仁和4年、宇多天皇によって完成されたこの寺は、元号を取って仁和寺と名づけられた。元号を寺名にすることが許された「元号寺」は、延暦寺、建長寺、寛永寺など10数寺しかない。
 宇多天皇は退位して法皇となり、この寺の一隅に住坊を建てた。このように、皇族・公家が出家して居住した寺を「門跡寺院」と呼び、仁和寺はその始まりである。

 以降、明治初年に至るまで、歴代住職は皇族出身であり、仁和寺は、特別に皇室とのつながりが強く寺格が高い寺として発展していった。寺域も次第に広がり、数々の堂宇が立ち並んだ。12世紀初頭には大火で多くの建物を失ったが再建され、隆盛は続いた。
 しかし、15世紀の応仁の乱で状況は一変。広大な境内は辺り一面焼け野原となってしまった。

 このように長い歴史の中で不測の事態が何度もあったにもかかわらず、仁和寺には、平安時代や鎌倉時代の宝物が数多く残っている。なぜ戦乱や大火を乗り越え、貴重な品々を後世に伝えることができたのだろうか。

「火事に備えて土蔵が作られており、貴重な宝物はそこに納められていたと考えられます。いざというときは、大事なものから担いで逃げるシステムもあったのではないでしょうか。背負子(しょいこ)のようなものも残ってますよ。それでも焼けてしまったものは多かったとは思いますが」と、この寺の文化財の管理を担当する金崎義真さんは説明してくれた。

「さらに、かつて塔頭(たっちゅう)だった寺が廃仏毀釈で取り潰され、そこにあったものが、最終的に集まってきたといこともあり、現在、仁和寺が保有する宝物は10万点以上あります。他のお寺にならひとつあっただけでたいへんなものでも、仁和寺においてはそう重要視されていないということもあるでしょうし、実はまだ未調査なものも多いのです」。

 それらをきちんと精査し、ひとつひとつの価値を定めて行くことが、今後の仁和寺の課題であると、金崎さんは言葉を結んだ。