今から2年前の2015年にベストセラーとなった、林純次氏の『残念な教員 学校教育の失敗学』。本書について、「プロ教師の会」名誉会長である諏訪哲二氏は、「ほかの教師たちに理解されなかったり、非難されたりした私怨をはらしているような気がする」と批判しているものの、「残念な教員の大半は、“鈍感”である」という林氏の指摘については「思い当たるところがないではない」という。では、教師の鈍感さとは一体何なのか。

◆教師に尊敬は必要か

 

 教師のありようについて大方の教師は鈍感だと思う。教師は「尊敬されるべき」とされる公的なあり方(建前)と、「自分は尊敬されている」と錯覚する私的な思いとがごっちゃになって、うまく分別できないところがある。生徒が建前で「尊敬」するふりをしているのを、本気だと思いがちである。

 教師というのは「尊敬に値する」仕事というよりは、「尊敬を必要とする」仕事である。子どもが自己形成していく上で教師はできるだけ「尊敬」された方がいい。
 現在でも教師は世間でも学校でも権威は失墜しつつあるとはいえ、「尊敬される」気風はなくなっていない。それは教師が「尊敬を必要とする」仕事であるからである。社会意識として必要とされているのだ。世間的に「教師」として「尊敬される」約束になっているからであって、教師のみんなや教師の個人が「尊敬に値する」からではない。

 ここを勘違いして、教師は「センセー、センセー」といわれると、自分自身が知的能力に優れた人格性、高潔な人物であると思いがちなのである。その点ではまさに「鈍感」といえる。

 私は教師は特に優れている人がなっているとも、特に優れた人がなるべき職業とも思っていないが、教師はとりあえず権威あるものと見なされるべきだし、「尊敬を必要とする」職業だと思っている。それは近代の学校が近代社会を維持・発展させられる社会的な個人を育成する使命を持つからである。
 近代的な個人は子ども(生徒)が目指すべきものであり、自己変革して登って行かねばならないものである。その際どうしても目の前に居る教師がそのモデルと見なされる。
 だから、「教師への尊敬」は教師にとってではなく、子ども(生徒)の自己形成にとって重要なインパクトを持つのである。

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