イラスト/フォトライブラリー
『江戸の性事情』(ベスト新書)が好評を博す、永井義男氏による寄稿。

 下谷六軒町に裕福な後家が住んでいた。
 後家は四十歳くらいだったが、死んだ亭主が残した土地や建物が各所にあるため、地代や家賃収入で悠々自適の生活だった。
 後家には徳三郎という二十四、五歳の息子がいたが、養子だった。

 近所では、親子仲が悪いので有名だった。
 後家はけちで、収入はひとりじめして、息子にはほとんど金を渡さなかった。
 いっぽうの徳三郎も常々、母親を恨むような言葉を発していた。
 嘉永二年(1849)の秋、徳三郎は母親を刃物で刺し殺し、五十両の金を奪って逃亡した。
 その年の十二月、徳三郎は勢州津(三重県津市)で召し捕られ、江戸に送られてきた。

『藤岡屋日記』に拠ったが、徳三郎が江戸の牢屋に収監されたあと、養子縁組の届けが出ていなかったことが判明した。
 人々はこう噂した。
「後家と徳三郎は養母・養子というのは表向きで、内実は男と女の関係だったらしい」
「男と女の関係を隠すため、外向けには仲が悪いように演じていたのさ」
「とすれば、母殺しではなく、妾殺しになろうぜ」
 
 当時、たとえ養母であっても、親殺しには違いない。親殺しは大罪だった。獄門に処されるのは確実である。
 ところが、養子縁組をしていなかったとなれば、ただの男と女である。徳三郎は獄門まではならず、死罪であろう(死刑には違いないのだが)。
 ただし、同書には吟味中とあり、判決までは書かれていない。

 さて、春本『つひの雛形』(文化頃)に、後家と養子の情交図が描かれている。
 養子は養母の情欲の激しさに辟易気味で、いさめたが――
「もし、早く気をおやり遊ばしませ。誰か人がまいりましたそうでございます」
「この子は、かわいそうなことばっかり言うのう。たとえ死んだ仏が生き返っておいでなさっても、たったの二番で、どうまあ、やめられるものか」

 亭主が死んで後家になったあと、女は年若の男を養子に迎え、実際は性の相手にして享楽しているのである。
 冒頭の事件を考えると、春本に描かれたような淫靡な男女関係は現実にも多々あったことになろうか。