イラスト/フォトライブラリー
『江戸の性事情』(ベスト新書)が好評を博す、永井義男氏による寄稿。

 吉原には名妓と称された遊女が少なくなかった。名妓とたたえられる遊女ともなれば、たんなる高級娼婦にとどまらず、現在の女優やモデル、セレブの要素もそなえていた。

 名妓のなかでもっとも有名なのが高尾であろう。高尾は三浦屋に代々襲名された太夫名だが、七代まで続いたとも、十一代までいたとも、諸説があってはっきりしない。その逸話にしても史実とフィクションがいりまじり、もはや「高尾伝説」と呼ぶしかないのだが、当時の男女が「最高の女」と考えていたのは事実である。
 ここでは『道聴途説』に記された高尾七代を紹介しよう。著者の大郷信斎は弘化元年(1844)に没した儒学者で、麻布に私塾をひらいていた。当時の知識人のひとりである。人々の高尾観の代表と言ってよかろう。

 初代高尾は、仙台藩の藩主に身請けされたため、仙台高尾と称された。
 二代高尾は、紀州藩の五百石の藩士最上吉右衛門に身請けされ、紀州におもむいたため最上高尾と称された。
 三代高尾は、水戸藩の御用達商人水谷六兵衛に身請けされたが、平右衛門という六十八歳の奉公人と密通して出奔した。その後、半太夫了雲という男の妻となったが、別れて牧野駿州という武士の妾になり、またもや河野兵馬という小姓と出奔した。その後、深川の髪結いの女房になったが、別れて袖岡政之助という役者の女房になり、さらに三河町の元結を商う商人の女房となった。最後は、大恩寺前の鎌倉屋という茶屋のかたわらで行き倒れになって死んだ。水谷高尾と称された。
 四代目高尾は、三万石の大名浅野家に身請けされたため、浅野高尾と称された。
 五代目高尾は、大伝馬町の紺屋九郎兵衛に身請けされた。

 五代目高尾はこれまででもっとも美貌とうたわれ、筆跡も見事で、人柄もよく、どんな貴人の内室になってもおかしくないといわれたほどだった。ところが、亭主の九郎兵衛は色黒で背が低く、鼻はひしゃげ、猿顔という醜男だった。
 しかし、夫婦仲はむつまじく、家業は繁盛した。九郎兵衛は染物屋にもかかわらず、染め物がへただったため、世間は「駄染」とあざけった。駄染高尾と称された。

 

 六代目高尾は、姫路藩の藩主榊原政岑に身請けされた。このことで幕府の譴責を受け、政岑は隠居、領地も姫路から越後の高田に国替えになった。国替えにともない、高尾は高田におもむき、政岑の没後は尼となって菩提を弔い、三十余歳で死去した。榊原高尾と称された。
 七代目高尾は、誰に身請けされたのか、あるいは年季が明けて吉原を出たのか、つまびらかではない。後年、木挽町采女原の水茶屋で奉公していたという話があるが、どこで死んだのかなどはいっさい不明。

 なお、著者の大郷は儒学者らしく、水谷高尾を「淫奔」と非難し、駄染高尾を称揚している。